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                         − 散  歩 −


 神殿都市。この国の人間なら、正式名称よりもこちらの方が通じるだろう。国教・モノケロース教の総教会を中心に構築された都市で、貿易都市および要害としての役目も果たす、国の重要拠点だ。
 そんな都市の中心、モノケロース総教会の中枢で、事の発端は発生した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
 神殿中を震わすような、耳を突き抜ける大音響に、侍女達は騒然とした。
 子供の泣き声というのは、ある意味、大人の天敵である。ましてや、それがモノケロース教にとって、至宝とも言うべき神童――モノケロースの神託を受け取れる者――が泣いているとなれば、落ち着いていられるはずがない。
「どうしたんですか? レミ様?」
 侍女の一人が頭を撫でながら優しく問いかけると、レミと呼ばれた少女は、泣き叫ぶのをやめ、
「ミ、ティアが……い、ないの……」
 としゃくりあげながら涙を拭う。しかし、涙は次々に零れてきており、またいつ泣き叫び出すか分からない。
「分かりました。すぐに探しますから、泣かないで下さい。ね?」
 抱きしめて背中を叩きながら、包み込むような優しさで侍女が言うと、レミは腕の中でこくりと頷く。
 刹那、ふわりとした微笑を引っ込め、控えていた侍女に、鋭い視線を向ける。
「すぐに大司教様に知らせなさい! 草の根かき分けてでも、ミーティアを探し出すのです!」
「はいっ!」
 普段は淑やかさを第一に、走るなどもってのほかである侍女も、このときばかりはスカートの裾を翻して駆けていった。


 それから約一時間半後、神殿を統括する大司教の元に、神殿全域の捜索が終了、神殿内にミーティアはいない、という報告がもたらされた。
「……やはり、ただごとではないですね。あのミーティアが、レミ様の側を離れ、あまつさえ神殿内にもいないとは……やはり、魔獣は魔獣ということですか」
 大司教は、隠すこともなく盛大なため息をついた。
 レミは、数年前、ある魔獣の子供を拾い、常に側に置くようになった。近年、魔獣といえどもただ危険なだけの生物ではないことがわかり、忠誠心の厚い魔獣ならば護衛など、パートナーとすることが可能だと分かった矢先のことだ。
 レミが拾ったのはそんな魔獣であり、レミの懇願の元に許可され、寝食を共にするまで仲良くなった。
 ミーティアと名付けられた魔獣は頭も良く、レミによく懐いて護衛としての任をしっかりと果たしていた。それこそここ数年、片時も離れなかったと言って差し支えないくらいに。
 だからこそ、ミーティアがレミの側を離れたのは、不可解だった。
「危険がないと信じたいですね……」
 そんな大司教の言葉に追随するものは、生憎、いなかった。


 神殿すべてを巻き込む大騒動とは裏腹に、ここは、まるで別世界のように静かだった。
 事態の根源は、泣き疲れたのか、ベッドの上ですやすやと天使のような寝顔を見せている。レミ――そう呼ばれる少女は、宝物がどこかに行ってしまわないように、とでも主張しているのか、ぬいぐるみをぎゅっと胸元に抱きしめ、体を丸めて眠っている。
 そっと毛布をかけ直し、侍女は衣擦れさえ抑えて部屋を出た。かすかに、ドアの向こうから衛士を呼ぶ声が聞こえる。恐らく、事態の進展を尋ねようとしているのだろう。
 そんな声を聞きながら、レミは伺うようにそっと片目を開けた。
「誰か……いる?」
 小声で確認するも、駆け寄ってくる気配はない。いつもなら、必ず誰かが駆けつけてくるが……今は、侍女一人を置くのが精一杯ということなのだろう。
 レミは、そっと唇に笑みを浮かべると、そろりそろり、裸足をふわふわとした絨毯の上に置いた。音を立てないよう、慎重に窓を開け放つ。そのときに、思いがけないほど大きな音で窓が軋んだ。
 ひゃっ、と首をすくませて扉を伺うも、誰かが部屋に飛び込んでくることはなかった。
 ほっと息を吐いて、レミは窓枠によじ登る。ひょう、と冷たい風が入ってきて、寝間着のレミは体を震わせたが、にこりと笑顔になった。そうすることが、そしてこれから起こることが楽しくて仕方がない、そんな表情だ。
「うんしょっと……」
 胸元から、紐をたぐって笛を取り出すと、宝物に口づけるよう、小さな口にそっとくわえ、ゆっくりと吹いた。
 音は鳴らない。しかし、レミは気にした風でもなくしばらく吹き続け、唐突に吹くのを止めた。
「たっ……!」
 突如、小さなかけ声と共に、大空に舞った。
 ごうっ、と風が耳朶を打ち、浮遊感が全身を包む。昂揚が恐怖に変わる直前、レミは、もこもことした感触に受け止められた。がしっと全身でしがみつき、一緒に落ちていく。
「いこっ!」
 すとん、とほとんど衝撃もなく地面に降り立ったそれに、レミは弾んだ声で促した。


「何だとぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!?」
 礼節も品性もかなぐり捨てた怒号が、びりびりと空気を震わせた。その場にいた数名の騎士や侍女が、揃って肩をすくめる。
「なぜ! レミ様が! いなくなる!?」
「わ、分かりません。ちょっと目を離した隙に……。捜してみたんですが、どこにも見あたらなくて……」
 今にも頭から湯気を出しかねない大司教を前に、レミ付きの侍女は、小動物のように体を小さくしていた。
「えーい、とにかく捜せ! 首に縄つけてでも連れ戻せっ!!」
 唾を飛ばしての怒鳴り声に、部屋にいた全員が我先にと飛び出していった。


 景色の流れる速度が、急に遅くなった。レミは、少し身を乗り出して尋ねる。
「ミーティア? どうしたの?」
「……本当に良かったんですか? 今頃、大騒ぎですよ?」
 狼にも似た牙の並ぶ口から、優しげな声が尋ね返す。
「大丈夫大丈夫。明日きちんと謝るもん。それより、早くお祭り行こうよ。その後、丘に行くんだからね!」
 普段よりも高い声に、もう何を言っても無駄だろうとは思いつつも、言わずにはいられないのか、ミーティアは更に言い重ねる。
「しかし、お祭りや散歩なら、こんな事をしなくても、きちんと言えば行かせてもらえるはずですよ? わざわざ怒られるのを分かっていながら……」
「だって。アレは駄目コレは駄目ってうるさいんだもん。ぜーんぜんおもしろくない」
「しかし、それはレミ様を思ってのことで……」
「あーもう! いいの! とにかく行くの!」
「い、痛い! わ、分かりましたから毛を引っ張らないでください!」
 背中の上でだだをこねられ、たまらず叫ぶミーティア。
 背中にいるレミの、「これ以上余計なこと言ったらむしってやる」と言わんばかりの気配に、ため息をつきつつ歩を進めるのだった。


「見つかった? ほんとか?」
 もたらされた朗報に、大司教は思わず机から身を乗り出してしまう。
「はい。が、少々、問題がありまして……」
 報告に来た騎士は、鎧の中で縮こまっている。よほど報告しにくいことなのだろう。大司教の眉がぴくりと跳ねると、それにすら過敏に反応してしまう。
「問題?」
「はい。神殿にお戻りいただくよう、丁重にお願い申しあげたのですが……その、まだ帰りたくない、と仰られまして。とにかくお戻り頂かねばと思い、少々手荒なまねもやむなしと思ったところ、レミ様が……半泣きになれてしまったのです。その上、捕まえたらクビにすると脅し文句まで……」
「神童ともあろうお方が、なんたる言いぐさだ……」
 ギリギリと歯を軋ませながら、大司教は沈痛な面もちで首を横に振る。
「更に……」
「まだあるのか!?」
「は、はい。実は、それを見た民衆までもがレミ様の味方になってしまい……ほとほと手を着けられない状態になっているのです」
「……そう、ですか。慕われているのはいいことですが、こんなときにそれが出てくるとは……」
 居場所がと無事が確認されたことで、少しは落ち着きを取り戻したのか、大司教の言葉遣いが元に戻った。
 とはいえ、眉間には相変わらず深いしわが刻まれている。決して、怒りや心配のすべてが去ったわけではない、とそれがよく物語っている。
「仕方がありませんね。騎士を同行させてください。それで妥協しましょう」
「は。分かりました」
 騎士が、ほっと安堵のため息をついてきびすを返そうとした瞬間、
「し、失礼します!」
 ノックもなく、騎士の一人が転がるように入ってきた。
「何事だ!?」
 上司なのだろう。大司教に報告をしていた騎士が叱責を飛ばす。
 しかし、転がり込んできた騎士は、姿勢を正す間も惜しむかのように、声を張り上げた。
「残してきた騎士達が、レミ様を見失ったそうです!!」

――ぷちん

 部屋の中に、小さくそんな音が響いた、ような気がした。いや、少なくとも、騎士二人は間違いなく聞いた。
 それが、空耳だったのか、それとも本当に聞こえたのか……それは、どうでもよかった。
「う……お……」
 彼らにとってみれば、大司教が倒れた、ということだけで十分だったのだから。


 リズミカルな揺れを感じながら、レミはさえずるような風の音に耳を澄ませていた。
「レミ様」
「なーに?」
「……いえ、なんでもありません」
 楽しそうなレミの邪魔をするのが、なんだか無性に嫌になった。
 本当にレミのためを思うなら、今からでも神殿に戻るべきだと、理性はしきりに訴えかけてくる。
 しかし、感情の部分は、このままがいいと、願っている。レミと二人きりの散歩を、実は自分こそが夢見ていたのだと、このときになって気づいた。だからこそ、無謀な芝居にすら乗り、今も走っているのだろう。
(拾ってもらった恩以上のものを、感じているのか、私は)
 今の関係も、決して平坦に築いたわけではない。人間に傷つけられたのだ、手当してくれたからと、すぐ心を許せるわけがない。
 だが、レミは、ひとりぼっちだったレミは、友達ができたと思ったのだろう。嬉しそうにいろいろなことを話し聞かせてきた。
 怪我が治るまでと、適当に相手になっていたが……孤独の隙間に入り込んでくるレミの信頼は、予想以上に温かかった。
 そうやって信頼関係を築いてはいたが、つい今し方まで、その信頼は恩義によるものだとばかり思っていたのだ。
 だが、こうしてレミを背中に乗せて駆けることの、なんと心地よいことか。信頼され、心許されていると感じられることが、素直に嬉しいと思える。
 そんな瞬間を、少しでも長く感じていたい。
 胸にあるのは、そんな思いだった。
 だから、足は軽く、風は心地よく、心は温かく。
 走る。走る。走る。
 そして、たどり着いた。
 絨毯のような緑が静かに囁きあう以外は、何もない丘の頂上。見上げれば、宝石をちりばめたように、星達が瞬いている。
 何もない。だからこそ、純粋に美しかった。
「えへへ、ねぇ、座って?」
 楽しげに目を細めて、そう頼むレミの願いを聞き入れ、ミーティアは、レミが落ちないようにそっと身を横たえた。
 レミは、するりと背中から下りると、草の上に座り、ミーティアに寄りかかる。
 そして、空を見上げた。
「キレイだよねー。前に来たときと、全然変わらないや」
 懐かしむように頬をゆるめ、目を閉じるレミ。
 何かを思い出すような様子に、ミーティアは邪魔をしないよう、穏やかな声で返す。
「以前にも、来たことがあるんですか?」
「うん。お母様と一度だけね。とっておきの場所。秘密の場所なんだよ?」
 そっと宝箱の中を見せるように言う。
「だから、ミーティアと来たかったんだ」
「どうして……ですか? 秘密の場所、なんでしょう? お母様との」
「うん。でもね、お母様はもういないから……大切な場所だから、一人で見たくなかったの。誰か、とってもとっても大好きな誰かと見たかったんだ。じゃないと……たぶん、泣いちゃうから」
 レミは、穏やかに笑っていた。
 大好き――心の底からその言葉を紡いでいる。悲しみではなく、幸せだと、確かに言っている。
「ミーティアはさ、きっと、いつかどこかに行っちゃうよね? ううん、ひょっとしたら、わたしがどこかに行っちゃうかもしれない。ずっと一緒にはいられないと思う。だから、ずっと一緒にいようとか、いなくなっちゃやだとかは……言わない」
 母親との死別――そこから、まだ幼い少女は、色々なことを学んだのだろう。事実を、未来を、確かに見据え、その上で発せられる言葉は、しかし、我慢や無理とは一線を介す感情を宿していた。
 ミーティアは、レミの言葉に聞き入っている。その先にある言葉こそが大事なのだと、半ば確信していたから、反芻するような沈黙を、レミ自身が解き放つのを待っていた。
「そのかわり、一緒にいられる間は、笑っていたいな。離れちゃっても、思い出が楽しいものであって欲しいから……だから、怒ったり、喧嘩したり、泣いたり、いろいろあるかもしれないけど、最後には笑っていられる、そんな時間を過ごそう?」
 お願いというには弱く、懇願というには強い。信頼の元に投げかけられた思いは、自然と受け入れることのできるものだった。
「はい。きっと、そんな素敵な時間を過ごしましょう」
 この日、二人は――主従や恩義を越えて、親友となった。


 ちなみに。翌日、二人は並んで、一日ベッドにうつぶせになっていたそうな。

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