セミがけたたましく自己主張を繰り返し続けている。

 窓を閉め切っていようと、夏に全ての命を尽くさんとするセミの生命のいななきを遮ることはできない。

 室内は快適な温度に保たれているが、セミの声によって、嫌が応にも心の不快指数は高められていく一方である。

「だぁぁぁぁ、イライラするぅぅぅぅ〜!!」

 真白いテーブルでノートと教科書と参考書に向かっていた庫裡 春菜(くり はるな)は、突如キレてどばん、と机を叩いた。テーブルの上にあったカラーペンが、音も立てず絨毯の上に落ちた。

「うるさいぞ、春菜。勉強くらい静かにしろ」

 双子の妹を注意しながら、庫裡 正器(くり まさき)が麦茶をテーブルの上に置き、落ちたカラーペンを机の上に戻した。

「お兄ちゃん、イライラしないの? このセミの声に!」

「俺に言わせれば、同じ寮内に部屋があるのに、ルームメイトがお互いにいないからとわざわざ人の部屋に乗り込んでくる双子の妹の方が困るんだがな」

 しれっと言い放ち、正器は麦茶を口に含みながらベッドに腰掛けた。

「うーいいじゃないの、一人って暇なのよ」

 ぷくっと頬を膨らませる春菜。正器は、はぁと溜息を一つつく。

「いや、俺はそーゆーことを言ってるんじゃないんだが。なんでわざわざ泊まり込む必要があるか、と言ってるんだよ」

「だって暇なんだもん。いいじゃん、兄妹水入らずってのも。遊びにだって行けないしさ。一人でレポートやるのって気が滅入るんだよ?」

「それはお前が赤点取ったからだろうが。自業自得だ。そもそも、レポートってのは一人でやるもんだ」

「これだから優等生はぁ……」

「別に優等生なんかじゃない。普通にやってるだけだ」

「お兄ちゃんの普通って、昔っから全っ然、あてにならないじゃない。お兄ちゃん、白鳥型だし」

「春菜。自分の不手際を人との差に置き換えるな。全く、あの倉品でさえ全部きちんと終わらせてるっていうのに……」

 肺の空気を空っぽにするような深い溜息をつく正器。

「あの、お兄ちゃん? ほたるはどう考えても規格外品じゃない? 右手と左手で別々のレポート書けるような超人と比べないでよ」

「ああ、そういえばあいつ、そんなことしてたな……」

 ちょっと遠い目をする正器。今思い起こしても、あれは夢だったのではないか、と思う。

 おちゃらけてるだけと思われているほたるだが、実は第二特待生――特殊な能力によって教官の推薦を受けている生徒――だったりする。普通では出来ない魔法の同時起動という能力を持っているためだが、その能力は元々並外れた同時並行処理能力というべきもので、普段の生活にも多分に利用されている。

 そのもっともたる例が、正器達が見たレポートの二本同時執筆という荒技だ。しかもレポートの中身はかなりの優れもので、読んだ正器はその出来の良さに唖然としてしまったほどだ。

 もっとも、ほたるはそのオーバーワークがたたって二日ほど寝込み、追加でここ数日頭痛に悩まされていたりするが。

 ……やはり、そんなのと比べるのは間違っているようだ。

「まぁ、あれと比べるのは無しにしてもだ。結局、赤点取ったの、俺達のグループん中じゃお前だけだぞ?」

「さ、紗夜香だって……」

「七海は試験を受けなかっただけだろ。意図的に」

「そ、それって赤点取るよりまずいんじゃ……」

「取り返しのつく単位だから問題ないだろ。必修落としかけてるお前の方がまずい」

「うー……本を徹夜で読んで眠いからって試験サボったのよりまずいなんてなんか間違ってるよぅ……」

 机に突っ伏し、不満の声をあげる春菜。しかし、正器は容赦がない。

「不満言ったってレポートはあがらんぞ。さっさと続けろ」

「うー兄が虐待するよぅ……」

「お前が今日中に絶対終わらせたいから、分からない所教えてくれって言ったんだろうが。楽しみにしてた本の発売日だってのに我慢して付き合ってやってる俺の身にもなれ。本当は朝一で買いに行くつもりだったんだぞ」

 憎まれ口を叩く正器。しかし、なんだかんだで正器の天秤は春菜に傾いているようである。

「うー分かった……やる」

 正器の優しさを知っている春菜は、不満げにしながらもむくりと体を起こし再びレポートに向かうのだった。




 それから数時間後。そろそろ夕焼けが綺麗に見える時間帯。

「終わったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 歓喜の声を上げつつ、春菜が背中から床に倒れた。

「おー終わったか」

 その声を聞き、ベッドで寝ころんでいた正器は体を起こした。そして、テーブルへと近づいていく。

「どれどれ……」

 レポートの束を持って中身の確認を始める正器。

「……よく考えると、双子にチェックされるってなんか変よね。習ってる所同じなのに」

 寝ころんだまま、春菜がふと思いついたように言った。正器は、レポートから目を離さずに反論する。

「というか、それ以前に勉強教わろうとするなよ。あ、春菜、ここ誤字」

「うえっ!? どこ!?」

 正器の指摘に、春菜は飛び上がるように起きあがった。

「ほら、ここ」

「あ、いけない……」

 渡されたレポートを机に置き、春菜は慌てて修正した。そして、正器にレポートを返す。

「でも、教わるなって言うけど、苦手な所教えあうのって当たり前でしょ?」

「ま、そりゃそうだな」

 あっさりと納得してしまう正器。春菜は、なんだか納得いかなそうな表情になった。

 それから、しばらく会話が途切れる。

「ん。問題ないと思うぞ」

 そう言って、正器は表紙を上にして春菜に返した。受け取った春菜は、「よし」と言いながら景気良くテーブルを叩き、立ち上がる。

「じゃ、着替えてこよっと」

 それを聞き、正器は一つ溜息をついた。

「まだ居座る気かよ、お前……」

「え? あ、それは違う……ってか、居座るのはそのつもりだけど。今のはそーじゃなくて、お祭り行くから着替えないと、ってこと」

「……祭り? 二駅行ったところにある神社の? 友達とでも行くのか?」

「何言ってんの? みんなでに決まってるじゃない」

 当たり前だ、とばかりに言い放つ春菜。正器は、思わず眉根を寄せる。

「みんなでって……俺とお前と倉品と進司と七海か?」

「当たり前じゃない」

「あの連中を引っ張り出すのか?」

「別に大丈夫でしょ? お兄ちゃんは暇だし、わたしも今レポート終わったし、ほたるはもう大丈夫だろうし、紗夜香は十分休息取っただろうし、進司君は今日は休みだからぼーっとしてるって言ってたし」

「お前、進司と行きたいんだろ? なんで俺ら巻き込むんだよ……進司だけ誘えよ。つーか、俺は外せ。これから本買ってきて読むんだから」

 付き合ってられんとばかりに、春菜に背を向けて備え付けてある机に向かう正器。

「ぶーいいじゃん、可愛い妹の恋路に協力してくれたって。お祭りって、好感度アップのチャンスなのよ?」

「だから、俺は外せって言ってるだろ……別に行くななんて言ってる訳じゃなし」

 机の上に置いてある財布の中身を確認しながら、正器は返す。

「だからぁ〜そもそも進司君がわたしと二人っきりで、なんて言って来てくれると思う? かと言って、紗夜香とほたる連れてってたら出歯亀されるに決まってるし」

 春菜は腰に手を当てて、なんで分からないかなぁ、というオーラをにじみ出させながら解説する。

 だが、当たり前と言うべきか、振り返った正器ははてな顔だ。

「だったら、俺が行っても変わらないだろ?」

「だから……あーもーつべこべ言わずに来てよ! 妹のために!!」

 力一杯お願いだか押しつけだか分からない物言いをかます春菜。

「……珍しいな、お前がそんなにわがまま言うなんて。そんなに進司のこと好きなのか?」

「当たり前じゃない! 三年越しの片思いよ? そろそろ決着つけたいのっ!」

 恥も臆面もなく、春菜は思いの丈をぶつけた。

 あまりにドきっぱりと言われ、正器は一瞬唖然となり……そして、感心したように溜息をついた。

「よくまぁ、臆面もなく言い切れるな、お前……。そこまで言い切れるなら、さっさと告白しちまえばいいのに」

「あのね、本人に言えれば苦労しないって、お兄ちゃん。それに、どうせバレてるんなら、一人でも協力者は多い方が良いでしょ? 進司君、倍率高いんだから」

 ある意味、ここまで開き直れれば大したものである。月日に焦らされた人間というのは、どうやら同時に恥じらいを削り取られて行くらしい。

「だから、とにかくなんでもいいから協力して」

 進司の顔に自分の顔を近づけて落としにかかる春菜。その目は、一歩間違えれば狂気とすら取れかねない光を宿している。正器は、その光と雰囲気に思わず腰が引けてしまう。

「……か、代わりに、本の代金、払えな」

「……オッケー。商談成立ね」

 いったい、いつどこで何故商談にすり替わったのかは定かではないが、とにかく兄妹の間で契約が交わされたのだった。

 しかし、転んでもタダで起きない正器は、さすがとしか言いようがなかった。




 祭り独特の雰囲気と言えば、太鼓やざわめきなど、人が出す音が造り出すものであろう。

 そして、祭りに来る人間というのは、九割方これらの音を聞くと心湧き踊り、自らも音を発する側へと向かうものである。

 しかし、会場の入り口では、希少なその一割が虚ろな目をしていた。

「頭痛い……」

「眠い……」

 親友同士である倉品 ほたる(くらしな ほたる)と七海 紗夜香(ななみ さやか)は、ほぼ同時にそう口にした。

「今更だが、本気で顔色悪いな、二人とも」

「ほんまに今更やな。ギャグでここまでやるわけないやろが……」

 こめかみを押さえながら律儀に反応するほたるの声にいつもの勢いは全く無い。

 しかし、ちゃっかりと浴衣を着込んでいるあたり、祭りそのものはまんざらでもないようだ。

「大丈夫か? 紗夜香ちゃん。なんか今にも倒れそうだけど……。本気で駄目なら断れば良かったのに」

「なんか今だけは進司君の顔が憎らしく見えるわね……殴っていい?」

「え、あ、いや、それは……」

 かなりキレ気味の紗夜香のドスが利いた声に、山路 進司(やまじ しんじ)は本能的にたじろいでしまう。

「紗夜香、何物騒な事言ってんのよ。せっかくのお祭りよ? 楽しまなくてどうすんの?」

 こちらも浴衣姿の春菜は、明るくはしゃいだ声で言う。ご機嫌もご機嫌、浮かれまくりだ。

「疲労困憊で仕事から帰ってきて熟睡してるところ叩き起こされて、何事かと思えば二人分の着付けやらされて、おまけに無理矢理引っ張ってきておいてよくそういうことが言えるわね? 春菜ちゃん?」

 どうやら頭が回っていないらしく、紗夜香の口からは愚痴がほとんど垂れ流し状態だ。

 しかも口端が奇妙な形に跳ね上がっており、イっちゃった風味の瞳と併せて見ると邪悪な表情なことこの上ない。

 いろんな意味でかなりキているのか、さすがに紗夜香は普段着である。

「いやぁ……ほら、やっぱり来たからにはみんなで楽しまないと。ね?」

 引きつり笑いを浮かべながら、しっかり数歩後ずさって弁解する春菜。

 と、進司が「あれ?」と声を上げた。

「二人の着付け、紗夜香ちゃんがやったの?」

「あ、進司君、知らなかった? 紗夜香って、結構伝統のある家のお嬢だったりするのよ、これで。他人のはもちろん、自分の着付けも出来るのよね」

「ええ……」

 咄嗟に話題をすり替えた春菜。紗夜香はわざわざ追求するのも億劫だったので、とりあえず会話を合わせることにした。

 ……単純に思考が追いついてないだけかもしれないが。

「そうだったのか? それにしては……随分と仕事だ仕事だと騒いでるよな? 別に金に不自由してるわけじゃないだろ?」

 横から正器が会話に入り込んできた。本気で不思議そうな表情をしている。その横では、春菜が「しまった」と言わんばかりの表情をしていた。

「あー正器、あんまり突っ込まんでおいてぇな、それ。友達やと思ってくれてるならな。色々と事情があるんよ、紗夜香にも」

 ほたるは、居心地悪そうなトーンで正器をたしなめに入ってくる。その表情は、頭痛とはまた違った痛みを耐えているようだ。

「別にいいわよ、ほたる。二人が知りたいって言うなら話すから」

「せ、せやけど……」

「大丈夫よ、覚悟はしてたから。それで離れていくようならそれまでだし。よくよく考えたら、偶然だったとは言え春菜ちゃんだけ知ってるっていうのもアンフェアだしね」

 重いことをさらりと言ってのける紗夜香。眠たげなその雰囲気の向こうに、強がりとか諦めとかそういう感情は無い。

 紗夜香は、本当に「離れていくようならそれまで」と思っているのだ。もしそれを聞いて二人が妙な素振りを見せれば、紗夜香は自分からさっさと二人を見限るだろう。

 ……恐らく、春菜の時もそういう感情しか無かったのだろう。そして、ほたるの時も。

「ご、ごめんね、紗夜香」

 自分の落ち度に、春菜は本気でしょげ返っている。かなり自己嫌悪と反省をしているようだ。

「別に大丈夫よ。ただ、あんまり外では言わないでね?」

「う、うん。もう言わない」

 儚げに微笑まれ、春菜は固く約束した。

 それを見た紗夜香は一つ頷き、視線を正器と進司に向けた。その目は、「で、どうする?」と答えを催促してきている。

「七海。普通に信頼出来るようになったら話してくれ」

「同じく。そんな軽い人間だとは思われなくないからな。今の状況じゃ、聞きたくない」

 正器は真剣に紗夜香の目を見て。進司は軽く肩をすくめて。二人は、同じ答えと、そして課題を返してきた。

「分かったわ」

 しっかりと二人の言葉を受け止め、紗夜香は頷いた。

 ただ甘やかすだけではなく、時に厳しくもある。想いや考え、問題や課題を共有しようとする。笑って包んでくるほたるとはまた違った接し方をしてくる二人に、紗夜香は少なからず新たな好感を抱いていた。

「じゃ、解決したところで祭りに行こか。いい加減、邪魔だって視線が痛いわ」

 紗夜香の心の動きを少なからず察知しているに違いないほたるだが、あえてそのことに触れず、話題をさらりと転換してきた。

 ……いや、そもそもとして、入り口に陣取っているこの五人は、滅茶苦茶邪魔だった。




「彼女、なんか暇そうだね? 良かったら俺と回らない?」

「お断りします」

 全くの躊躇無しに、紗夜香はナンパ野郎を一蹴した。しかも、射抜くような視線を向けている。

 ただのナンパ野郎はただのナンパ野郎であり、所詮は威勢だけだ。鉄のように固い紗夜香の雰囲気に為す術もなく退散する以外にない。

「紗夜香、すごーい。今ので十人目だっけ?」

「十一人目よ」

 左手に綿菓子を持って戻ってきた春菜の感心した声に、紗夜香は間髪入れず訂正を入れた。どうやら、かなり気が立っているようである。

「どないしたんー?」

 ぞろぞろと戻ってくる残りのメンツ。ほたるはもちろん正器の横を独り占めしているし、春菜は進司の横にそそくさと戻っていたりする。

 祭りが好感度アップのイベントであることは、紗夜香も承知している。そのため、やや離れた位置で綿菓子を買う四人をそっと見守っていた、というわけである。

 しかし、そうなると途端に寄ってくる虫がいるわけで、紗夜香はそれらの虫共に心の底から辟易していた。

(あー本当に断れば良かった)

 遅蒔きながら後悔する紗夜香。さすがに人混みとあって今日はボディーガードがいない。いつもなら寄ってこない虫も、今日ばかしは紗夜香自身で対応しなければならないのだ。

 人混みでタダでさえストレスが溜まっている紗夜香にとって、それはかなり苛つくものだった。

「もー紗夜香、十一人目だって、ナンパ虫撃退数。すごくない?」

「確かに私服やしすごいかもしれん。……一回、翠泉無しで海とか歩かせたいなぁ」

「ナンパなんてお断りよ。そういうのはほたるに任せるわ。ほたるだったら、色気だけで磁石並に集まってくるんじゃない?」

「うわっ、紗夜香、マジ機嫌悪いな。可愛い顔が台無しやで?」

「確か、美人系の顔やなぁ、って言ったのほたるだったわよね?」

 ボケを毒舌と皮肉で返され、さすがのほたるも顔を引きつらせる。

「はぁ、ごめん。なんか駄目、加減利かないみたい。上の方行って休んでるね。適当な時間回ったら、呼びに来て」

 憂鬱げな表情で紗夜香はそう言うと、返事も聞かずにさっさと人混みの中へと消えていってしまった。

「……いいのか? 放っておいて」

 たまりかねた正器が、ほたるに尋ねる。ほたるは、ひょいっと肩をすくめる。

「ま、色々考える事があるんよ。緑玉(りょくぎょく)もおるし、平気やろ。もともと紗夜香、祭りとかって好きなタイプやないからな。それよか、あたしらが楽しまんとますます不機嫌になるから、しっかり遊んどこ」

 そう言ってほたるは笑みを浮かべ、正器を引っ張って歩き出した。

「お、おい、引っ張るな!」

「ちょっと待ってよ! 進司君、早く行こ」

「ああ」

 春菜と進司は、やや早足で二人を追い始めた。




 紗夜香は、なんとなく静かそうという理由だけで、石段を登った。そして、実際にそれは正解だった。

 神社の境内は人影もなく、祭りの雰囲気からは隔絶されている。周囲の木々が、これまた雑音を消していた。

 紗夜香は、右手の方向へと足音を立てないように歩いていく。そして、一本の木の張り出した根に腰掛けた。

 途端、一つ大きな溜息が口をついて出た。

「疲れた……」

 木に背中を預けるように寄りかかり、空へと視線を向ける紗夜香。空にはいくつもの星達が淡く光って夜空を彩っている。

 と、上を向いている紗夜香の頭の上に乗っているキャスケット帽が、もぞもぞと動き出した。

「緑(りょく)?」

 それに気付いた紗夜香は頭の位置を戻し、ひょいと帽子を上げる。

 すると、小型の白いフェレットがちょこまかとした動きで紗夜香の肩に移動した。

「どうかしたの?」

 帽子を戻しながら、紗夜香は視線の端に緑玉を捉えて言った。いつもなら頭を傾けていても大人しくしているのだが。

「え? お腹空いた?」

 緑玉は、器用に紗夜香の肩で後ろ足立ちしながら小さく頷いた。

「そういえば、晩御飯食べてなかったっけ」

 今の今まで完全に忘れていた紗夜香である。ちなみに言えば、早朝に帰ってきて夕方までダウンしていたわけだから、朝と昼も食べていないことになるのだが。

「しょうがないじゃない、疲れてたんだから。おまけに勢いで引っ張られるし。え? ここで食べる? 駄目よ、出店のなんか。おやつくらいなら後で買ってあげるから、帰るまで我慢して」

 母親……に似た表情で言う紗夜香。緑玉は、気の毒なくらいにかくりとうなだれた。……ひょっとしたら、結構楽しみにしていたのかもしれない。

 再び、紗夜香は空を見る。何も考えずに、何も思わずに、ぼーっと。

 すると、段々と瞼が重くなってくる。

(あ、眠くなってきた……)

 寝たら駄目かな……? とぽつりと思ったが、迎えも来るし良いか、と思い紗夜香は瞼を閉じた。

 紗夜香の意識が完全に闇に飲み込まれ……る寸前、

「あの、大丈夫ですか?」

 森の方からそう声をかけられ、紗夜香は「きゃぁっ!?」と悲鳴を上げて文字通り飛び上がった。

「な、な、な……!?」

 よく分からない構えを取りながら、警戒と混乱を同時に行う紗夜香。色々と身に染みているようである。

「ご、ごめんなさい、まさかそんなに驚くなんて……」

 そして、当の本人も紗夜香の驚きようを見て慌てていた。

「誰……?」

 言いながら目を凝らし、紗夜香は男性――いや、男の子を観察した。

 まだ多分に顔つきに幼さがあるし、体つきもまだ男性的な張りが見られない。声もまだ高いし、恐らく一つ二つ年下といったところだろう。美形というわけではないが、全体的にすっきりとした雰囲気を持っている。

「あ、僕、石嶺 大樹(いしみね だいき)って言います。その、幼なじみを探してて……女の子、こっちに来ませんでした? 赤い浴衣着て、髪の毛後ろで束ねてる、ちょっと小うるさそうな感じの」

「知らないけど……」

「そうですか……。困ったなぁ……」

 文字通りの"困ったなぁ"と"しょうがないなぁ"が掛け合わさったような表情をする大樹。

「でも、森の中にはいないんじゃないかしら? 浴衣着てるなら」

「はぁ、普通はそうですよね……。でも、あいつ『蛍見っけた。捕まえる』って走ってっちゃって……ひょっとしたら戻ってきてるかなぁと」

「……ここ、水辺じゃないけど」

「水辺? ……ああ、蛍がいるわけないってことですか? 僕もそう思うんですけど……まぁ、足が速いのなんのって。止める間も無かったんですよ」

 はぁ、と大樹は溜息をつく。どうやらこの場限りというわけではなく、常日頃からその幼なじみの暴走特急具合には悩まされているようだ。

(……ちょっと似てるかも)

 大樹の位置関係が自分と似ているようで、紗夜香は少しばかり親近感を覚えた。

 大樹に向かって次の言葉を紗夜香が発しようとした瞬間、

「……ん?」

 ふと、紗夜香は階段を登ってくる足音を捉えた。

 複数――五、六人だろう。恐らく、性別は全員男。やや早足。

 紗夜香は足音から瞬時にそれだけの情報を割り出した。

「誰か上がってきますね……?」

 別段足音を隠そうとしているわけではなさそうなので、大樹も誰かが上がってくる事は気付いたらしい。

 そして、血相を変えて上がってきた男共の先頭が、境内をぐるりと見渡し――紗夜香と大樹を見つけると、途端に嫌いやらしげに表情を変えた。

「なんだなんだ、こんな所で逢い引きかぁ〜?」

 にやにやとした笑みを浮かべながら、男は余裕ぶった歩き方で紗夜香達の方へと歩いてくる。その後続もまた、同じような感じだ。

「だとしたら、なんなんです?」

 すっと目を細め、紗夜香は返す。

 別に逢い引きをしているわけではないが、否定したところで相手をつけあがらせるだけだと紗夜香は知っていた。

 ならば、わざわざ不快な思いまでして相手にネタを提供してやる義理はない。

「そんなガキじゃなく、俺らと遊んだ方が楽しいぜ。もっと大人の楽しみ方ってヤツを教えてやるよ」

 男が言うと、他の男達が下劣に笑った。

「お断りします」

 後の展開は分かり切っていたが、紗夜香は一応拒絶してみた。

 しかし、男達は引く素振りを見せない。それどころか、にやにやとした笑みを浮かべるだけだ。

「お前、この状況が分かって言ってんのか? さっきとは違うんだぜ?」

「さっき……? ああ、ナンパしてきた中の一人なんですか。いちいち顔なんて覚えてないんで、気付きませんでした」

 実際には予想通りだったのだが、言ったところでどうなるわけでもないので、紗夜香は相手の尊厳をとりあえず潰すことにしてみた。

 下手に出て解決するのならともかく、そうでないならわざわざへりくだる必要はない。ストレスの感じ損だ。

(……こういうところ、ほたるの影響大きいなぁ)

 自分の考えがほたると似通ってきている事を感じ、紗夜香は内心で苦笑した。……もっとも、ほたるの場合は紗夜香の刃のような切り捨て方とは違って、どちらかというと布のよう――つまるところ、馬鹿にして切り捨てる感じなのだが。

「その減らず口……すぐ叩けなくしてやるよ」

 男はぎらりとした視線を向け、ドスの利いた声で言った。同時に、背後の男共が思い思いに構えを取った。

(ふーん)

 格好だけのチンピラ――という評価を、紗夜香は変更した。

 バラバラな構えだが、それなりに様になっている。幾度もの喧嘩を乗り切っているようで、喧嘩慣れしているようだ。……とは言え、紗夜香にとっては気に掛ける必要すらない程度の実力でしかないのだが。

「ちょっ、ちょっ、ちょっ」

 と、事の成り行きをおろおろと見守っていた大樹が、慌てたように紗夜香と男達の間に割って入ってきた。

「なんだ、てめぇ」

「じょ、女性に暴力はいけないですよ!」

 男の気迫に押されながらも、大樹は踏ん張って反論した。

「ほう……」

「私は大丈夫だから下がって!」

 男が大樹に近づいてくるのを見て、紗夜香は声を張り上げた。

「い、今の内に逃げて下さい」

 大樹は背中越しに紗夜香に言う。紗夜香の言葉を、強がりと受け取ったのだろう。

 男はそんな二人のやりとりを気にした風でもなく、手を伸ばせば大樹に触れられる位置に来て止まった。

「てめぇがサンドバックになれや」

 大樹は、「え?」と口にしたのと同時に頬に衝撃を感じた。

「がっ……」

 何が起こったのかも分からぬまま、大樹は倒れぬようにと無意識に体を支えた。

 しかし、目がチカチカとしていて自分がどこを向いているのかさえ分かっていない。

「おらよっ!」

 バネと体重を上手く使った蹴りが、足下のおぼつかない大樹の脇腹にめり込んだ。

「……ッ!!」

 具体的な痛みではなく、強烈な衝撃だけを感じた大樹は、声も上げられずに地面を転がった。

「はん、口だけかよ?」

 地面に倒れて呻いている大樹に、男は嘲笑を浴びせる。

「『ブラストウィンド』!」

 だが、次の瞬間、突風が吹いて男は一歩よろめいた。

 男が、何事かと振り返る。その視線の先には、背筋を伸ばして右手を向けている紗夜香がいた。

「あなたがどうにかしたいのは私じゃないの? 自分より弱い人間を屈服させて楽しい?」

「てんめぇ……」

 紗夜香の台詞に、憤怒の形相を向ける男。だが、紗夜香は怖じ気づくこともなく、鋭い視線を向けている。

「この野郎!」

 男は、ブチ切れて紗夜香へと殴りかかった。先手必勝。懐へと潜り込む。魔法を使う人間には、特に有効な手段だ。

 だが、紗夜香とて魔法だけが取り柄ではない。素人に毛が生えた程度の男が繰り出した拳を捌くことなど、訳もなかった。

 紗夜香は、的確に力のベクトルをずらして、男の拳を捌いた。

「何……!?」

「『エアリエルボール』!」

 脇が空いたことと驚愕で隙だらけとなった男の胸に手を置き、紗夜香は短く唱えた。

 瞬間、空気の塊が弾け、男が宙に浮いた。

「ぐ……が」

 潰れたような悲鳴を上げながら飛んでいく男。そして、たっぷり数秒の空中遊泳を堪能した後、背中から地面に落ちた。

 紗夜香が体勢を元に戻すと、耳に痛い静寂が辺りを支配するようになる。誰もが呼吸を忘れたように、音を発することが出来なかった。

 ゆっくりと、紗夜香は残っている男達へと体を向ける。そして、男達を一通り見回した後、なんの感情も浮かばせない声で言った。

「ご覧の通りですけど……まだやります?」

 鮮やかすぎる手並みと圧倒的な力量差に男達は言葉を失っており、紗夜香の問いに答えを返すことが出来ない。だが、戦意が無いことだけは明らかだった。

「そこに倒れてる人を連れてさっさと消えて下さい」

 向かってくる気配がないことを悟った紗夜香は、冷たく指示した。

 がくがくと気の毒な程機械的に首を振り、男達は紗夜香の目を気にしながら倒れている男の元へと走っていく。

 そして男を抱え上げると、脇目もふらず一目散に逃げていった。




「生命の理を以て 生命を紡ぐ 傷を塞ぎて修復せよ 『ヒールウーンズ』」

 大樹の側にしゃがみ込んだ紗夜香が手を添えて唱えると、手の平からほのかな光を発する粒が溢れてくる。

 脇腹と頬――紗夜香が添えたそれぞれの手から光の粒は際限なく溢れ出し、大樹の患部へ触れると解けるように消えていく。

「もう大丈夫」

 そう言って、紗夜香は手を離した。と同時に光の粒が消失し、辺りは再び星明かりの支配する空間へと戻った。

「あ、ほんとだ……」

 体を起こした大樹は、脇腹と頬にあった痛みが完全に抜けているのを、不思議な思いで感じていた。脇腹や頬に手を当てても、全く痛みはない。先ほどまでの苦痛が嘘のようだ。

 「全く、いくら何でも無茶しすぎよ」

 紗夜香は、唐突に溜息をついて言った。大樹が、「え?」と疑問符付きで顔を上げる。

「どう考えてもあいつらが素人じゃないことくらい分かるでしょ? 素人相手だって、多人数の所に突っ込むなんて無謀極まりないのに」

「いや、でも……放ってはおけないし」

「だったら手を引いて逃げるとか、もっと別の行動をとりなさいよ」

 珍しく厳しい口調で説教をする紗夜香。その口調には苛立ちが多分に含まれていた。こんなやりとりを前もしたな――そう思ったが、言葉は止まらない。前は納得できたというのに。

「あんな行動、非効率だし無意味そのものじゃない」

「助けたいと思ったら体が動いてたんだ。理屈じゃない」

 むっとしながら、大樹は反論する。さすがに無意味とまで言われて黙ってはいられない。

「確かに役に立たなかったし、非効率だと思うけど……でも、それを無意味って否定されるのは納得いかない。第一、人を助けるのに理由はいらないだろ!? それだけで意味がある!」

「……ッ!」

 はっとしたように息を飲む紗夜香。人を助けるのに理由はいらない――その台詞に強い覚えがあったのだ。

 昔、同じようなシチュエーションにいる所にほたるが割り込んできて返り討ちにあったことがある。その後、ほたるに詰め寄ると「人を助けるんに理由なんかいらんやろ」と笑顔で言ってきたのだ。

 他人からの打算のない擁護と無縁に育った紗夜香にとって、そんな風に本心から言う人間は初めてだった。そこから徐々にほたるとの付き合いが始まったのだ。

(ほたる以外にもいるんだ……)

 友人や恋人、家族など自分に近しい者を守ろうとするのはありふれた感情だ。

 けれど、全くの他人をなんの見返りも期待せずに助ける人間を、紗夜香はほたる以外知らなかった。

「でも、自分が傷つく事で助けた人が悲しい思いをするってことは、考えた方が良いわよ」

 ほたるの事を思い出し、無闇な否定が出来なくなった紗夜香は、あのとき言えなかった――あるいは、あのときは感じなかった――気持ちを率直に伝えた。

「う……はい……」

 急に勢いを弱め、素直に頷く大樹。奇妙な、それでいて不快ではない沈黙が二人の間に流れる。

「あーーー!」

 沈黙に耐えられなくなる直前、突如、第三者によって沈黙は破られた。

「大樹ッッ!!」

「へ?」

 横手から大音量で名前を呼ばれ、大樹は弾かれたように視線を向けた。

「い、郁(いく)……?」

 柳眉を吊り上げた赤い浴衣姿の女の子の登場に、大樹は目に見えて狼狽していた。

 郁と呼ばれた少女は、地面を踏みならすような歩みで大樹へと近づいていく。

「どこに行ったのかと探してれば……こんな所でナンパ? 信じらんない! あんたはそういうことは絶対にしない男だって思ってたのに……」

「郁、誤解だって、これは……」

「問答無用! お父さんにしごいてもらうんだから! 覚悟しなさい!」

 言いながら郁はがしっと大樹の二の腕を掴んで、ずるずると引きずり出した。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ……なんでそうなるの!? 門下生でもないのに……」

「お父さん、今の男の軟弱ぶりをいっつも嘆いてるから、大丈夫」

「だぁ、郁、お願いだから話を聞いてってばぁ〜」

 二人の姿が階段から見えなくなっても、半泣き状態の大樹の叫びが、夜の境内に木霊していた。

 二人がいなくなってから一、二分後、今度は四つの足音が紗夜香の耳に入ってきた。

「紗夜香ーお待たせー」

 二人と入れ違いに、今度は春菜達が現れた。ご機嫌な春菜とほたるの様子から、どうやら存分に楽しんできたようである。

「楽しんできたみたいね」

「おお、きっかりな。だから、これ買ってきたで。お腹減ってる思ってな」

 そう言って、ほたるはビニール袋を差し出してきた。なにが「だから」なのかは全く不明だが。

「ありがとう。緑、ほたるが買ってきてくれたよ」

 微笑を浮かべて受け取った紗夜香は、肩にいる緑玉に言った。

 緑玉は、紗夜香の肩から身を乗り出して中身を確認しようとする。紗夜香は、見やすいように袋の口を広げてやった。

「ねぇ紗夜香。なんかトラブルでもあったの?」

「え?」

「今、そこの階段で女の子に引きずられてる男の子が、不良に絡まれてる女の人がいて、とかなんとか言ってたから、紗夜香なのかなぁって」

「ああ、うん。ナンパ断った腹いせに六人ほど」

「紗夜香の断り方じゃ、そりゃ腹いせもしたくなるわなぁ」

 うんうん、としきりに頷くほたる。

「大丈夫だったのか? いや、その男達の方だが」

「大丈夫よ。別に無差別に叩きのめす必要なんてないもの。向かってきた一人が全治一週間くらい」

「ほー随分と手加減したんやなぁ。全員やるかどうかはともかくとして、向かってくる相手には容赦せんのに」

「ほたる、それは言い過ぎじゃない? 向かってくる相手にだって、加減は考えてるわよ」

「……ちょっとやりすぎな所はあるけどね」

 ぼそり、と春菜が誰にも聞こえないように付け加えた。

「……あれ? 紗夜香」

「何?」

 突如眉根を寄せたほたるに、紗夜香は小首を傾げる。

「なんか妙に機嫌いいんとちゃう?」

「……そう?」

「さては……あの引きずられてた男となんかあったんやろ?」

 にまぁとした笑みを浮かべるほたる。心の底から楽しそうだ。

「……まぁ、無かったと言えば嘘になるけど」

「おっ! ついに紗夜香にも男が出来る気配が!?」

 歓喜とからかいを半々に込めた声を上げるほたる。

「残念。彼女付きだから無理よ」

 紗夜香はくすりと笑い、「そろそろ帰ろ」と言って歩き出す。春菜達もそれに習って歩き出す。

 しかし、ほたるは呆然としたまま動かなかった。

「紗夜香が……色恋にまともに反応しおった……」

 いつもなら、「そんなわけないじゃない」とでも言って一蹴するのに。

「ほたるー? 置いてっちゃうよー」

 春菜の呼びかけに、ほたるは一瞬遅れて反応した。

「ちょい待ちぃな!」

 小走りになるほたる。その表情は、予期せぬ嬉しさに緩んでいた。


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