休み時間の廊下。それは、まさに雑踏の中が如しだった。

「さーやかー」

 そんな廊下に、一際響く声が通り抜けていく。廊下の半ばでその声を聞いた七海 紗夜香(ななみ さやか)は、ほとんど反射的に頭を抱え……しゃがみ込んだ。

 談笑していた周りの人間は、突如として視界から失せた紗夜香を追い、再び視界に入れた途端に凍り付いてしまった。
 
 そして、紗夜香の周囲だけ切り取ったように沈黙が鎮座した。

「……何やってんの? 紗夜香」

 声を出した人物は、駆け寄ってくると、珍妙なものを見たと言わんばかりに第一声で紗夜香に問い掛けた。

 すると紗夜香は上目遣いにゆっくりと顔を持ち上げ、当人の顔を視界に入れて言った。

「や……美佳姉さんが声張り上げたから、てっきり跳び蹴りが来ると思って」

「やかましい」

 そして、ぺしんと紗夜香は頭を平手打ちされた。

 紗夜香は「うー」と唸って抗議の視線を投げつけるが、当然、鴻 美佳(おおとり みか)に対してではそんなものそよ風にもならない。

 和広あたりがいれば援護してくれただろうが、さすがに周りにいるのがいつものメンツでは援護どころか同意も出てこなかった。

「というか、一体いつの話をしてるのよ。いくら何でももう女の子にそんなことするわけないでしょ?」

 やや憤慨したように唇をとがらす美佳。

 しかし、長年の付き合いがある紗夜香を黙らせるなど、その程度のことでは無理だった。半眼で美佳を睨め付けながら言う。

「この前、黒鞘さん、しょっちゅう叩かれてるって言ってたけど?」

「あんの天ボケ……」

 わなわなと拳を震わせながら、美佳は引きつったような笑みでもって重厚に呟いた。

「と、ところで姐さん。一年の廊下まで来るなんて一体どないしたんで?」

 何となく雲行きが怪しくなり始めたのを察した倉品 ほたる(くらしな ほたる)が、素早く話題を方向転換した。

「姐さんって……」

「イメージ的に、こう、姉さんとかよりもそっちが先行する……んです……よね」

 美佳に薄目を向けられ、尻つぼみになっていくほたるの言い訳。それでも最後まできちんと聞こえる声で言い切るところは、さすがほたるである。

「……ま、いいわ。紗夜香、もう授業終わりでしょ?」

「うん。まだホームルームが残ってるけど」

「ならいいわ。えーっと、ほたるちゃん? 紗夜香、拉致ってくから適当に担任に言い訳しておいてね」

『は?』

 見事な唱和をみせる紗夜香とほたる。

 しかし、美佳はまるで駄々っ子を親が引きずるように、紗夜香の手を固く握りしめてずるずると引きずっていく。ひらひらと後ろ手に手を振りながら。

「ちょ、美佳姉さん。ホームルーム出ないとまずいんだって! 今日は序列戦の説明が……」

「そんなもん、後でほたるちゃんに聞けばいいでしょ。なんだったら優秀な家庭教師でも派遣してあげるわ」

「そういう問題じゃなくて……というか優秀な家庭教師って序列戦の事伝えるだけでそんな必要が……」

「あーもーつべこべ言わずきりきり歩く!」

「だったら引きずらないでよ!」

 遠ざかる二人の言い争いは、徐々にヒートアップしながらも小さくなっていった。

 そして、そんな二人を見ていた四人の内、三人が疲れたような表情で同時に重々しい溜息をついた。

「……なぁ、俺らって完全にシカトされてなかったか?」

「そうみたいだな。しゃべらないとエキストラと一緒ってこったな」

「でも、あれに割り込むなんて無理じゃない……?」

 その場にいながらも一言も発言させてもらえなかった山路 進司(やまじ しんじ)、庫裡 正器(くり まさき)、庫裡 春菜(くり はるな)の三人が、またもや揃って複雑な思いを溜息に込めた。



「ホームルームさぼらせてまで拉致るとか言うからどこに行くのかと思えば……」

 中途半端なところで言葉を切り、紗夜香は盛大に溜息をついた。

 そして、テーブルを挟んだ正面にあぐらをかいて座る美佳を半目で睨みながら、重々しく続けた。

「なんで私の部屋なのよ……」

「細かい事気にするコねぇ。何? 男子生徒の部屋に拉致監禁が良かった? まぁ、紗夜香レベルなら後先考えずに喜びそうな奴はいっぱいいるだろうけど……あ、好きな男がいるんだったら協力するわよ?」

「や、そんなので喜ぶ男なんて対象にすらならないから。てゆーか、もう突っ込み所が多すぎてどこから突っ込んだらいいのやら……」

 紗夜香は、テーブルに肘を立てて自らのこめかみをもみほぐしながら言った。

「もー贅沢ねー。そんなんだから男できないのよ? なんだったら誰か紹介しようか? それくらいの知り合いはいるし」

「……一応、これでも選択できる立場にはいるんだけど。単に及第点以上に誰も来ないだけで」

 美佳の皮肉と憐憫の交じった台詞に動揺した素振りも見せず、紗夜香は涼しげな表情で返した。

「いや、だからこそ紹介しようって言ってるんだけど……?」

「や、美佳姉さんの知り合いじゃ、どうせたかが知れてるし」

 打てば響くように、紗夜香は美佳の言葉にさらりと返した。

「あんたもほんと言うようになったわね……」

「ま、冗談の半分はこれくらいにして」

「半分ってあんたね……」

「肝心の用件は?」

 耳にフィルターを貼ったかのように美佳の怒りの声を黙殺し、紗夜香は促した。

(なんか調子狂うなー。前からそういう傾向あったけど……やっぱり友達って選ばないと駄目よねー紗夜香みたいなコは)

 内心で溜息をつきつつ、完全に責任を誰かさんに転嫁しきっている美佳。

 しかし今どうこうできる問題でもないので、とりあえずそれは脇に置いておくことにした。

「ま、そんな大したことじゃない……いや、ある意味大したことかな? ちょっと預かりものを頼まれて欲しいのよ」

「預かり物?」

「うん」

「何を?」

 当然の疑問だ。紗夜香は小首を傾げた。

「あー悪いけど、それは言えないのよ。引き受けてもらってからじゃないと。ま、危険物じゃないから。その点は保証するわ」

 気楽に言った後、ものはね――美佳は内心で静かにそう付け足した。

「うーん……」

 視線を天井に上げ、唇に人差し指を当てながら唸る紗夜香。

 美佳は、紗夜香が信頼する数少ない人間の一人だ。両親、弟、伯父、ほたる。正直な気持ちを言ってしまえば、進司はほたるの幼なじみだから、春菜と正器はそのほたるの友達だから信頼しようとしている、という程度でしかない。

 それだけ、美佳は紗夜香にとって特別な位置にいる。

 そんな美佳が保証すると言っている。しかし、紗夜香は同時に美佳の性格も把握している。恐らく、何らかの裏があるだろう。

(危険物じゃないけど、危険がないとは言ってないし……)

 まるで美佳の思考を読んだかのような考えを思い浮かべる紗夜香。

 だが、その危険度がどれくらいのものなのか――それはさすがの紗夜香も予想できない。

 考え始めて十数秒。紗夜香はそこまで考え、答えの出ない問題をすっぱりと放棄した

「分かった。引き受けるわ」

「あ、ほんと? ありがとー助かるわー」

 そう言って、ほっと安堵の溜息をつく美佳。

「で、その預かる物って何なの?」

「ああ、天馬よ」

「……は?」

 思いもよらない単語に、紗夜香は思わず耳を疑った。

「今……天馬って言った? あの天馬?」

「ええ」

 恐る恐る聞いてくる紗夜香に、美佳はあっさりと頷いてみせた。

「な、な、な……!」

 もはや驚きで言葉すら出てこない。その代わり、思考だけは竜巻の如く無秩序に高速回転をしていた。

(天馬って言ったら保護指定の魔物よ? 国際条約で狩猟どころか捕縛すら禁止されてるのよ? そ、そんなものを預かれって! そもそもどうして美佳姉さんがそんなもの所有してるの? 危険物じゃ確かに無いけど、だからって……もしかして言わなかった危険性って犯罪行為のこと!?)

 さーっと青ざめていく紗夜香の顔色。それを見た美佳が、むっと眉根を寄せた。

「ちょっと紗夜香。変な想像してんじゃないでしょうね? 言っとくけど私は密猟者でもないし国際条約違反もしてないし犯罪者になる覚えもされる覚えもないわよ?」

「で、でも天馬って……」

「……ああ!」

 突如、美佳がぽんと右拳を左手の平に打ち付けた。

「そういえば言ってなかったっけ。私、今、国際魔動物保護観察研究所の準研究員助手候補なのよ」

「国際魔動物保護観察研究所?」

 紗夜香は、全く知らない単語を聞いたときのオウムそのままに言葉を発した。

「ま、役目は読んで字の如く。魔物や動物なんかの保護やら観察やらをしながら、その生態とかを研究するってわけね。まだ発足してからそんなに経ってないらしいけど、立派な連合の下部組織よ。私はそこの一番下っ端。一応、卒業したら準研究員助手になる――つまり、就職する予定だけど」

 情報を整理しようというのか、目を細めて思考に入る紗夜香。

「れ、連合組織に就職!?」

 そして、頭の中で符号が一致したのか、目を剥いて素っ頓狂な声を上げた。

「う、嘘でしょ? れ、連合って、あの世界最大の国際機関、世界統合魔法連合!?」

「相当混乱してるわね。連合って言ったらあれしかないじゃない」

 けど、紗夜香の驚きも大げさじゃないかもね――美佳は内心で苦笑を漏らしていた。なにせ、自分だってその話が来たときは驚きで開いた口が塞がらなかったのだ。

(試験を受けてるならともかく、普通にスカウトだったしね)

 連合の構成員は、全世界にある魔法関係の組織――学校、研究機関、軍部など――から推薦された人間を選抜して決定される。

 つまり、魔法学校の最高の一つがマジック・ノア総合技術学園ならば、それらをひっくるめた世界規模での全ての組織の最高点にあるのが、世界統合魔法連合ということだ。

 ひょいっと肩をすくめて、美佳は苦笑を表に出した。

「一声で数千人単位の推薦書が上ってくるって連合だからね。スカウトなんて確かに信じられないだろうけど。でも、ほんとなのよ。このまま行けば準研究員までは間違いなくなれるだろう、って所長に言われてるくらいだし……就職は間違いないわね」

 紗夜香は、彫像のように固まってしまっている。口だけが金魚のようにぱくぱくと開け閉めされているのは、そこだけ何かのからくり細工が施されているようだ。

「今のこの表情見せたら、あんたにお熱だって男共のどれだけが離れるのしからね」

「あ……」

 美佳の皮肉に反応したわけではないだろうが、紗夜香はようやく我を取り戻したようだった。

「ま、私の境遇なんてどうでもいいわね」

 話題を転換するように美佳はそう言って、制服のスカートのポケットから二つ折りにされた細長い紙を取りだした。

 そして、その紙を真っ直ぐに伸ばし、テーブルの上に置いた。次いで、集中するように目をつぶった。

「解錠・開扉(かいじょう・かいひ)」

 筒の中を通すような特殊な発声でもって、指向性を持った直線的な空気の震動が起こった。

 次の瞬間、細長い紙に書かれていた文字が外枠を描くように発光した。

「う……そ」

 果たして、紗夜香が呟いたのと『それ』がテーブルの数十センチ上とに現れるのと、どちらが先だっただろうか。

 そして、紗夜香の呟きは、『それ』が現れたことに対するものだったのか、それとも『それ』が本当に天馬であったことに対するものだったのだろうか。

 『それ』――二枚の翼を持った小さな置物サイズの白い天馬――は音もなくテーブルの上へと降り立った。

 そして、目の前にいる紗夜香を見上げて、可愛らしく小首を傾げてきた。

「か、可愛い……」

 うっとり目を輝かせて天馬を見下ろす紗夜香は、ちょっとトリップ気味だ。

「この子をね、1ヶ月程度預かってて欲しいのよ」

「一ヶ月……序列戦?」

「うん。部屋に一人にしとくわけにもいかないし……この子、好奇心強いからすぐ外に出ようとするのよ。人目に付かせるわけにいかないから、それが厄介で」

「ロージは美佳姉さんの相棒だしね」

 口調に羨ましさを滲ませながら、紗夜香はそっと天馬に手を伸ばした。天馬を優しい手つきで撫でながら、自分達の事へと思いを巡らせる。

(私は……まだ、そこまでの関係になってない)

 翠泉と緑玉との付き合いはかなり長い。だから、信頼はこの上なくしている。

 しかし、紗夜香はどうしても戦えない。……いや、戦いたくないのだ。

 美佳とロージは、怪我をすることを恐れることもなく敵に向かっていく。互いの信頼と実力に自信を持っている。

 だが、紗夜香はどうしてもそれを持つことが出来ない。決して二人が信頼できないわけではなく……むしろ自信を持てないのは自分に対してだ。

 自分の実力を把握しきれてない自分。それが、紗夜香の戦いを嫌う最も大きな理由でもある。

「紗夜香」

 名前を呼ばれて、紗夜香ははっとしたように視線を上げた。視線が美佳と絡む。

 一瞬で、美佳の視線は、慈しむように紗夜香の心を包んできた。

 それは、美佳が持つ優しさの証だ。暖かくて柔らかくて。全てを許すような、それでいてただ甘やかすだけではない。

 紗夜香は、美佳のこの視線が好きで、こんな瞳をできる美佳だからこそ信頼しているのだ。

「あんま思い詰めないの。あんたがあたしらみたいにならなきゃいけない理由はないんだから。あんたはその優しいままでいなさいよ。信頼してる、自信を持っているイコール戦いが好き、戦えるってのとは違うわよ。この学園じゃあんたみたいなのは異常に見られるかもしれないけど……間違ってなんかないわよ」

「美佳姉さん……ありがと」

 紗夜香は、安心したように薄い笑みを浮かべた。

「あ、ところで……」

 紗夜香は、思い出したように言いながら「おいで」と天馬に手の甲を近づけた。

 一瞬きょとんとした天馬だったが、すぐに思い至ったのかひょいとその手の甲に乗った。

「この子、名前なんて言うの?」

 そして、天馬を顔のパーツ一つ一つまでも見える距離で見つめながら、美佳に問うた。

「私はウェイって呼んでるけど。でも、あんまり好きじゃないみたいなのよ」

 苦笑しながら美佳は「ねぇ? ウェイ」と天馬に呼びかける。

 だが、天馬はぷいっとそっぽを向いてしまった。

「ほらね?」

「じゃぁ……翔(かける)なんてどうかしら?」

 すでに思いついていたのか、紗夜香はほとんど悩むことなくその名を口にした。天馬は今度はそっぽを向いたりはしなかった。

「気に入ったみたいね」

「良かった」

 花が咲いたように笑みを零して天馬とじゃれ始める紗夜香。

(うん、ビンゴね)

 無邪気な紗夜香と天馬を見て、美佳は笑顔を浮かべた。

「あ、肝心なこと忘れてた。美佳姉さん、ほたるのことは……」

「ああ、親友の子? あの子は大丈夫よ。あの子を含めたあんたのグループ全員の身辺調査、念入りにやらせてもらったから。ま、他に知られると厄介だから、私としてはほたるって子だけにして欲しいんだけどね、知られるのは」

「そっか。良かった……」

 紗夜香の力の入った肩から、すっと固さが抜けた。と、紗夜香はある一単語に唐突に違和感を覚えた。

「……身辺調査?」

「そりゃ、するでしょ。あ、大丈夫。スタッフは全員女性だから、スリーサイズとか体重とか、嬉し恥ずかしなデータはヤロー共にはバレてないから。あ、後紗夜香の初恋とか……そーゆーのも一応、丸秘データ扱いになってるから大丈夫よ♪」

「なんでそんなことまで調べてるのよ!」

 気楽……というか楽しげに言い放つ美佳に、紗夜香は頬を僅かに赤らめて怒鳴った。

「パーソナルデータとか過去から現在にかけての交流関係、人物に対する親密度から関連度、更にその繋がりからの繋がり……そこまでやらないと駄目なのよ、こういう仕事を預けるにはね」

 ふっと表情を引き締めて美佳は言った。

 あまり見ることのない、それだけに印象深い真剣な眼差し。引き絞られた弓のように鋭く、直線的に相手を見据える瞳だった。

 紗夜香は、はぁと一つ溜息をついて呆れたように言った。

「そこまでするくらいなら研究所の人に預ければいいのに。さっきみたいにその紙に入っていてもらうとか……」

「分かってないわねー。私はね、まだ正式な職員じゃないの。言ってみれば、適正を見られてるのよ、今。こういう調査能力――正確にはスタッフへの指示能力だけど――ってのも必須能力だからね。向こうがわざわざ序列戦に近い時期にこの仕事回してきたのだって、そこら辺見るためだろうし」

 ひょいと肩をすくめる美佳。その顔は、まるで仮面が剥がれ落ちたかのように緩んでいる。

 この少女に真剣な表情を長続きさせろと言っても、恐らく無理な話なのだろう。

「それに、これってそう長い間入れておけるもんじゃないのよ」

 言いながら、美佳は紙をつまみ上げてひらひらと振る。

「一応、私でも序列戦となると学校終わってから7時間以上訓練するし……休憩は挟むけど。それに、帰って寝るだけだから構ってあげられないのよ。それって可哀相じゃない? そうすると、誰かに預けるしかないのよ」

「大変なのね、序列戦って」

「あんた他人事みたいに言ってるけどね……少なくとも来年からはあんたも出るのよ?」

 重い溜息をつきながら、美佳は頭を振った。

 どうも、紗夜香にはまだ中等部の癖が抜けていないようだ。よく言えば物事を冷静に捉える、悪く言えば緩んでる紗夜香の性格が、高等部の性質と全くかみ合っていない。

(まぁ、無理もないかもしれないけどね、紗夜香の性格と環境じゃ)

 内心で複雑な想いを交錯させる美佳だった。それを読みとったわけではないだろうが、美佳の考えに返答するようなタイミングで紗夜香が言葉を返してきた。

「別に今のままで十分やっていけるし」

「そういう甘い考えだと、潰されるわよここじゃ」

 警告のつもりで厳しめに言ってみるが……案の定、紗夜香は全く動揺した素振りすら見せない。

「ま、あんたの人生だし……これ以上どうこう言いはしないけどね。でも、ここは中等部みたくお気楽で過ごせるほど甘い場所じゃないって事だけは、しっかり頭に叩き込んでおきなさい。あんたは潰れるわけにはいかないんでしょ?」

「うん」

 美佳の懸念を全て打ち砕くような声で、紗夜香は小さく頷いた。

*  *  *   *   *   *   *   *   *   *   *

 放課後。ホームルームも終えた時間。

 ここから先は、もう完全に個人の時間である。よって、教室でくっちゃべってようがどっかに連れだって出かけようが訓練や自主勉強にいそしもうが、個人の自由である。

 そのため、スキップでもしそうな軽快な足取りで他のクラスへ向かっていようが、奇異の視線で見られることはあっても、咎め立てられるいわれはないのである。

「ふんふふふーん♪」

 上機嫌に鼻歌なんぞを歌いながら、1-B教室――進司と正器の教室へとやってきた春菜。なぁんも考えてなさそうな様子で扉に手をかける。

「ひゃぁっ!?」

 開けようとした途端に別の力で引っ張られ、春菜は慌てて手を引っ込めて、ついでに反射で一歩分後ろに飛び退いていた。

「あ、春菜ちゃん……?」

 ファイティングポーズをとる春菜を見て、きょとんとした表情の紗夜香。

「なんだ、紗夜香か。びっくりさせないでよ……」

 ほうーと息を吐きながら全身の力を抜いていく春菜。よっぽど驚いていたらしい。

「あれ? 紗夜香もう帰るの?」

 目をちょっと見開いて春菜は尋ねた。

 よくよく見れば、紗夜香はもう帰り支度は完璧の状態だ。ほたるが一緒にいないので、他の教室に行く、というわけでもないだろう。

「うん。ちょっと用事があるから」

「ふーん。そういえば最近、すぐに一人で帰ってるよね。今日は直接帰らなかったの?」

「進司くんに頼まれてた資料、渡さないとならなかったから。さっきクラスメートから返ってきたのよ」

「ふーん……そーなんだ」

 訝しむように半眼になる春菜。声にもいささか刺が含まれているような気がする。

 それを見て苦笑が漏れてきてしまい、紗夜香は慌てて口を手で覆った。

「何よ」

 更に険を増す春菜の声と表情。

 しかし、それは紗夜香の苦笑を笑いにする効果しか無い。

「大丈夫よ。ふふ、進司くんが受け損ねた授業のレポート、明日が締め切りなの。その資料だから急いで渡したのよ」

 笑いを言葉の端々に滲ませながら、不機嫌顔の春菜に説明する。

 それがまた春菜の機嫌を悪くするのだが、それはもうどうしようもない。

「じゃぁね」

 仕方なく、紗夜香は顔一杯に笑みが広がらないように注意しながら、春菜の横をそそくさとすり抜けた。

「余計なお世話よー!」

 数秒を置き、背後から、そんな春菜のやや声を抑えた怒鳴り声が聞こえてきた。

(ほんと、可愛いわねー春菜ちゃん)

 背中を向けていても、真っ赤になった春菜の顔が容易に想像でき、今度こそ紗夜香ははばかることなく顔一杯に笑みを浮かべた。

「さてと。早く帰らないと。あんなに好奇心旺盛だなんて思わなかったな、ほんとに」

 今度は別の意味での苦笑――慈愛の苦笑を浮かべながら、紗夜香は寮への道を早足で駆けていった。

 翔を美佳から預かって早2週間半が過ぎた。

 美佳の推奨通り、天馬を預かっていることはほたる以外には話してないし、ほたるも他の人間には話していない。

 また、紗夜香が翔の世話をしているのだが、ほたるはその隠蔽に快く協力してくれている。

 今のところ取り立てて問題はないのだが――唯一の問題と言えば、翔の好奇心だった。

 今までいた環境と違うせいか、翔は何にでも興味を持つのだ。最初は室内だけだったので良かったのだが、次第に外に出ていこうとまでするようになってしまった。

 仕方がないので、ここ数日は翠泉――紗夜香に従うソイック・ウルフという魔物だ――に天馬共々留守番をしてもらい、授業が終わったら紗夜香は即帰宅、というスタイルでなんとか誤魔化している。

(でも、このままだと翠にも抑えられなくなっちゃうよね……どうしようかなぁ)

 日に日に増していく翔のフラストレーション。それを抑える翠も、疲れが見え始めている。

 どっちが先かは分からないが、少なくともそう遠くない内にどちらかが爆発するだろう。

 小走りしながら、紗夜香ははぁ、と重苦しい溜息をついた。

(やっぱり、どっかで出さないと駄目かな)

 あらゆる意味で、気が重くなることだった。

 いつの間にか、景色は寮へと続くレンガ敷きの一本道へと変わっている。等間隔に両脇に並ぶ木々からは、若々しく茂る葉の匂いが漂ってきて鼻腔をくすぐる。

 紗夜香は、四季折々の表情を見せるこの道が好きだった。今の時期は、葉擦れの音が耳に心地良い。紗夜香は、走りながらもその音を聞こうと耳を傾けていた。

 そんな紗夜香だが、ふと何やら奇妙なものを遠目に認めて目を細めた。宙を飛ぶ何かが、こちらに高速で向かってきているのだ。

(何……?)

 紗夜香はその場で足を止め、警戒の体勢をとった。

「あれ……?」

 寮の出口から猛スピードで駆けてくる見覚えのある影。どうやら、その前にいる奇妙なものを追っているらしい。

「わん!」

「翠!?」

 悲鳴のように上げられた鳴き声から、紗夜香はその正体にすぐさま思い至った。

「じゃぁ、まさか……」

 嫌な予感に、紗夜香は血の気が引く音を聞いたような気がした。

「翔!!」

 視認し叫んだと同時に、白い天馬は紗夜香の胸へと飛び込んでいた。

「ちょっ、なっ、どっ」

 驚きのあまり、言葉が最後まで出てこない。紗夜香は、胸に飛び込んできた翔を隠すように腕で包んだ。

(えーっと、落ち着いて落ち着いて……)

 ジタバタともがく翔を無視し、紗夜香は念仏のように頭の中で唱えながら周囲を素早く見渡した。

 まだ放課後すぐであることが幸いしたのか、周囲に人影はない。紗夜香は、それを確認すると大股で寮へ向けて走り出した。

 抗議するような翔のもがきを完全に無視し、一秒でも早く寮へと入り込もうと走る。その表情は、まるで猛獣から逃げようとするかのように強ばっている。

 そんな紗夜香の視界の中でどんどんと大きくなっていくのは、やや重たそうな両開きの鉄の扉。

 それなりの伝統を持ち、幾人もの生徒を送り出し迎え入れた銀色の扉だ。

 その扉の詳細までも観察できる距離まで駆けてきた紗夜香は、きっと扉を睨み付けると早口に呪文を唱え始めた。

「風の理を以て 風を紡ぐ 集いて吹き荒れよ 『ブラストウィンド』!」

 紗夜香の眼前に渦を巻くように集まった風が、刹那、弾けて両開きの扉へと牙を剥いた。

 ドバターン、というとてつもなく破壊的な音を立てて扉は開き、紗夜香は更に加速する勢いでドアをくぐった。

「翠、靴お願い!」

 玄関に入った紗夜香は、そう叫ぶなり足の動作だけで靴を放り出した。

「ちょ、七海さん!?」

 管理人の女性――30代前半頃か――がぎょっとして窓から身を乗り出してくるが、紗夜香はそんな声など聞いた様子も無い。

 放物線を描くように宙を舞う靴。それを、翠泉は飛び上がって空中で同時にくわえた。その頃には、紗夜香の姿は二階へと消えている。

 ひらりと軽く地面に降り立った翠泉。くわえた靴を、棚の下の方に前足と鼻先を器用に使って綺麗に揃えて入れた。

 そして、呆然としている管理人のお姉さんにぺこりと一礼し――女性は慣れたものか、それに気付くとひらひらと手を振った――幾分か緩い速度で階段を登り始めた。



 猛スピードで走りながらも意外に足音は小さい。紗夜香は、自分の部屋までほとんど息を付く間もないペースで走っていた。

 そして、片腕にしっかりと翔を荷物よろしく抱え直し、まるでピンポイント狙撃の如く鍵を差し込んでドアを開けた。

 ほとんど最小限の隙間から体を滑り込ませ、どばん、と体重をかけるようにして勢い良く扉を閉める。

 直後、力尽きたようにずるずると崩れ落ちていった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 扉に背を預けたまま、紗夜香はやや上向きに苦しげに息を付いていた。顔や首筋には、うっすらと汗も滲んでいる。

 締め付けの緩んだ腕から翔が抜けだし、不満げな表情で紗夜香を見ていた。

 その気配を感じ取ったのか、紗夜香が息を整えるようにしながら翔へと視線を降ろしていく。

 そして、翔と目があった瞬間、紗夜香はきっと鋭い視線を向けた。

「翔! あれだけ部屋の中にいてって言ったでしょ!?」

 紗夜香にしては珍しい怒声。

 不満げにしていた翔が、瞬間、びくりと体を強ばらせた。

 紗夜香が向けるのは、直視するのも辛い視線だ。しかし、逆に目を逸らすことは出来ず、翔はその瞳に怯えを滲ませている。

 普段の紗夜香ならば、この時点で慌てたようになだめにかかっているだろう。

 しかし、今回の紗夜香はそうしなかった。

「翔はね、狙われてるのよ? 危ないの。分かる?」

 噛んで含ませるように、紗夜香は言う。

 しかし、当の翔はさっぱり要領を得ないようだ。未だに怒りの気配がある紗夜香の目を見ながら、怯えを含ませたまま首を傾げている。

 十数秒間、視線を交わす両者の間には、湿気よりも重い沈黙が横たわっていた。

「はぁ……もういいわ」

 根負けした……というよりは、打っても響かない翔に言っても無駄だと悟ったのだろう。心底から脱力したように、紗夜香は肩を落とした。

 途端、翔がぱーっと顔を輝かせ、紗夜香へと擦り寄ってきた。

「もー外に出ることを許したわけじゃないのよ?」

 翔を撫でながら、苦笑を禁じ得ない紗夜香。

(ほーんと、甘いなぁ、私も)

 胸中でぼやきつつ、そんな自分に更に苦笑を濃くしてしまう。

(けど……いい加減なんとかしないとなぁ。やっぱりほたるに相談してみようかな……でも…………)

 こんな時に相談できる相手がほたるだけだということが、断崖絶壁が背後に控えているかのように不安でならなかった。

*  *  *   *   *   *   *   *   *   *   *

「おい……いきなり呼び出していったい何の用だ」

 いつも通りに遅れてきた女性陣――特に、事の発端であるほたるに向けて、正器は元々悪い目つきを眼鏡の奥で更に悪くして言い放った。

「なんや正器。朝から不機嫌やなぁ。こんなに気分のいい朝やのに」

 大自然を制服の胸に抱くように、ほたるは両手をいっぱいに広げて言う。――実際にあるのは、円形の広場を囲うような木々と草達だけだが。

 ほたるの声に応えるように、木々が葉を揺らした。それに合わせ、レンガ敷きの地面に落ちた影がその模様を万華鏡のように変える。

 だが、そんな心洗われる光景も、不機嫌を吹き飛ばすような効果は無かったらしい。

「くだらんおしゃべりはいい。テスト前だってこと、お前分かってんのか?」

 ずーんと重いトーンで問い掛けてくる制服姿の正器の声は、お世辞にも活力に満ちているとは言い難い。

 現在は、8時を少し回ったところ。休日の朝としては早い方だろう。

 ただし。それが通常の休日なら、である。

 今の時期、二年生以上と一部の一年生は序列戦の準備で大わらわだろう。それに伴ってというわけではないが、序列戦に関係のない一年生は、他の一般の学生と変わらず――内容は言わずもがなだが――学期末テストが待っているのだ。

「分かってるっちゅーに。今慌ててるんは、普段からやってないからやろ?」

「なんつーか、多少事実を含んでるはずなのにお前に言われるとすっっさまじく腹が立つのはなんでだ?」

「まぁまぁ、正器。別に危ないってわけでもないんだろうし、大丈夫だろ。なぁ、春菜ちゃん?」

「……」

 苦笑を浮かべながら春菜に同意を求めた進司だったが……話を振られた春菜は、焦点の合わない目で虚空をしっかりと見つめていた。

「……春菜ちゃん?」

 意外なものを見るようにしながら、進司は春菜の眼前で手をひらひらと振った。

 しかし、春菜は焦点を失ったままだ。

「……まさか?」

「なーんや、春菜危ないんかぁ。駄目やでぇ、きちんと予習復習せんと」

 何が面白いのかくっくっくと喉で笑いながら、ほたるは幼児に諭す時のように春菜の頭を撫でている。

「しょ、しょうがないでしょ!? 小笠原教授はしっかり実験やるし、クラスの友達には引っ張り回されるし、ほたるとか紗夜香は弄めてくるし、お兄ちゃんは意地悪だし、進司くんは鈍感だし、おまけに訓練厳しいし……部屋帰ったらそのままバタンキューで翌朝まで爆睡の上に遅刻ギリギリよぉ〜」

 滝のように目幅いっぱいの涙を流しながら、春菜は舌に潤滑油を塗られたみたいにまくし立てた。

「なんか一部全く関係のない事が混じってるような気もするんだが……」

 半分本気で泣きが入りかけている妹に声高に反論をするのははばかられるのか、小声で言う正器。

 そんな正器に、進司が小声で話しかける。

「なぁ、俺が鈍感ってどういうことだ?」

「そういう事を聞いてくるから鈍感だってんだよ」

 半眼で横目に睨み、正器は冷淡に返した。

 普段の二倍から三倍増しくらいに口調が冷たい。やはり、正器も兄ということか。

 進司の台詞がほたるか何かに対してだったら、溜息とともに呆れを滲ませた言葉が返ってくることだろう。

 だが、進司にはやはり通じていないようだ。

「はぁ? だからなんで?」

 理不尽に直面した顔で聞き返している。

「二人とも、互いに傷の広げ合いしてないでくれる?」

『は?』

 いつも通り涼やかに仲裁の声を挟む紗夜香。

 しかし、正器と進司は同時に疑問符を返していた。だが、紗夜香はこれ以上突っ込んで説明する気もないらしく、さっさと春菜に声をかけている。

「ほら、春菜ちゃんも。そんないじけてないで。ほたる、傷口に塩塗り込まないの!」

 ……いつの間にやら、保護者のようになってしまっている紗夜香だった。

 それからいつものようにわいのわいのと騒ぎが始まり、それが収拾したのは、五分後、紗夜香が頭にきて魔法を放ってからだった。

「で、確か呼び出された理由だったっけ」

 制服についた汚れをはたきながら、何食わぬ顔で進司が話を元に戻した。

「おお、そやな。そろそろ説明してやりぃや、紗夜香」

「うん」

 紗夜香は軽く頷き、ポケットから細長い紙――美佳が天馬を運んできたアレを取りだした。

 そして、全く同じ手順で翔を呼び出した。

 瞬間、しーんと周囲から音が遮断された。

 紗夜香とほたる以外、目を丸くして口をあんぐりと開け、更に驚きに声が出ないようだ。呼吸すら止まっていそうな静寂がある。

 驚愕の沈黙が思考の沈黙に代わり、それが更に霧散するまでたっぷりの時間を使ってから、更に数秒の沈黙を挟んで正器がごく真剣な目つきで言った。

「紗夜香、いくらなんでも、犯罪の後始末に俺らを使うのはいかがなものかと思うんだが?」

「美佳姉さんから預かっただけよ?」

 打てば響くタイミングで返す紗夜香は、正器の返答をある程度予想していたらしかった。

「……お前が犯罪だと知らないのか、それとも犯罪の片棒を担いでいるのか、どっちだ?」

「……」

 だが、さすがにここまでの返しは予想していなかったらしく、無言でひくりと頬を引きつらせた。

「あのねぇ、正器君?」

 凍り付きそうな程の冷たい声で、紗夜香が反論を口に昇らせ……ようとした瞬間、その場の全員が、ぞくりと背筋を這い上がる冷たい気配を覚えた。

 その正体を確かめるより早く、正器達を囲うように五人の人間が現れた。近くの木やら茂みやらから飛び出してきたのだ。

「誰だ!!」

 穏やかならぬ気配の五人に、正器が素早く誰何の声を投げる。

 何者だ、と聞かないのは、五人が学園の制服を着ているからだ。

 顔は妙な仮面で隠れているが、学生に違いあるまい。なんの根拠もないが、直感的に正器はそう断じた。

「気を付けぃや! こいつら翔……天馬を狙ってる奴等やで!」

 向けられている視線の向きから、ほたるは素早く正体を看破、注意を促した。

「ちっ……」

「む」

「あわわ」

 三者三様の声を上げながら、それでも意外に素早く体勢を整える三人。

「思った通りやな。このまま蹴散らそか」

 ほたるが、にやりと唇を吊り上げながら小声で言った。

 狙われているなら、おびき出してしまえばいい――ほたるは、紗夜香の相談にそう提案してきた。その目論見が的の中心を射止めたのだ。

 だが、紗夜香は予想が的中しても、釈然としない表情を見せていた。翔を腕に抱き、視線だけで相手を見据える。

(変……。学園の生徒がなんで翔を狙うの? ううん、それ以前に、翔の存在を知っているはずが……)

 だが、考えられたのはそこまでだった。五人が、一斉に動いたのだ。

 正器達も、それぞれに迎撃を行う。

「くっ!? 貫け! 『シャドウニードル』!」

「『フルエンハンス』起動!」

「はぁっ!」

「上等や!」

「我覆う柱となれ! 『トルネードウォール』!!」

 正器の影から伸びた針が一人の体勢を崩し、春菜は残像を残す速度で移動して一人を体当たりで吹き飛ばし、進司は持っていた刀で斬りかかった。

 ほたるはどこからか取りだしたハリセンで景気良く一人の仮面を打ち据え、紗夜香は防御用の魔法を展開して一番近くから襲いかかってきた一人を弾き飛ばした。

 仮面の生徒達の第一撃は誰にも当たらなかったものの、正器達も傷を付けることはできなかった。

 全く動じた風もなくそれぞれに距離を取って、再び正器達と対峙する。

(こいつら……なんで奇襲しなかったんだ?)

 仮面の生徒達の動きを見て、正器はふと疑問に思った。

 仮面の生徒達は相当に訓練された動きをしている。それも、進司のようなパワーファイターではなく、どちらかというと軽戦士系として。

 ならば、真正面から戦うよりも奇襲を仕掛けた方が圧倒的に有利に事を進められたはずだ。

(……考えても仕方がないか。むしろ、幸運だと思うべきだな)

 正器は自身の思考に、早々に決着を付けた。長々と悩んでいれば、次の動きに支障が出てくるからだ。

(待つ必要はないな)

 心の中で即決し、正器は詠唱を始めた。

「闇の理を以て 影を紡ぐ 足縛る枷となれ」

 そこまで唱えると、正器は唐突にくるりと体を半回転させた。

「『シャドウフィーラー』!」

 鋭く叫びながら、紗夜香の一番近くの生徒へ向け手を突き出す。

「!?」

 向けられた仮面の生徒が驚きに体を硬直させるのが見えた。

 それと同時に、仮面の生徒の足下に伸びている影から幾本もの黒く細い触手が伸び上がる。

 その触手は絡みつくように手近にあった足にまとわりつき、一個の闇となって生徒の足を拘束した。

 生徒が泥に足を取られたような感触を覚えて足下を見たのと同時に、ほたるが駆け出した。

 その手には、先ほどまで持っていたハリセンとは明らかに違う――ほたるの身長ほどもあるハリセンが握られている。

「重力よ!」

 たん、と飛び上がると同時に鋭く叫ぶ。

 そして、拘束された生徒へ向けて大振りにハリセンを叩き落とした。

 ズドゴン、という巨大岩石が落ちたかのような轟音を立てて、ハリセンは生徒の脳天にめり込んだ。

「まず一人やな」

 華麗な着地を決めたほたるは、ハリセンを器用に肩で担いでにやりと笑った。

 純粋に一人倒したことが嬉しかったのだろうし、自分達の優位を誇示しようという意図もあったのだろう。

 しかし、仮面の生徒達にさほど動揺は見られなかった。

「空の理を以て 風を紡ぐ 刃となりて切り裂け 『エアリエルカッター』!」

 仮面の生徒の一人が、素早く魔法を起動させた。

 目標は紗夜香だ。あくまで、目的の遂行を第一に考えているらしい。

 真空の刃が、陣形の隙間を縫って紗夜香へと迫る。

 だが、紗夜香の目に怯えや驚きはない。迫り来る真空の刃を気配で探って視線を絡ませた。

 直後、紗夜香の眼前で細やかな光が無数に乱反射し始めた。それらが小さな氷の粒であることが分かったのは、紗夜香だけだ。

 氷の粒は刹那の時間で規模を膨らませ、壁となった。

 グラスを落として割ったときのような、涼やかでいながら破壊的な音色で氷の壁が砕け散った。

 呪文も無しに魔法が発動したことに驚くこともなく――即座に、別の生徒が呪文を口に出し始めた。

「火の理を……」

「うぉぉぉぉぉぉっ!!」

 呪文を遮るように、進司が雄叫びを上げながら駆ける。同時、正器も動いていた。

「以て 炎を紡ぐ 無数の火球となりて全てを焼き払え……」

 生徒の魔法が完成するよりも、進司の接近の方が早かった。

 手の中で刀を返し、地面に叩きつけるような踏み込みと共に、斬撃を繰り出す。

 鈍い音を立てて生徒の腹辺りに刀が叩きつけられた。

 生徒は、苦悶の声を上げることも叶わず、地面へと崩れていった。

 そして、進司が生徒を倒す頃には、正器の魔法が完成していた。

「『ウォーターエッジ』!」

 唱えると同時、正器は腕を前方にしならせた。

 その動きに従うように、正器の手先からしなる水の刃が空気を斬り裂いて飛んでいく。

 生徒は、大振りのその攻撃を横に飛んでかわした。

 そして、反撃を仕掛けようと地面を蹴――れなかった。

「かは……」

 肺の奥から無理矢理空気が押し出された。見れば、ショートカットの頭頂部が眼下にあった。

 そして、生徒は何となく理解した。自分の腹に、拳が突き刺さっていることを。

 そうと認識した直後、生徒の意識から映像が途絶えた。

 生徒の体から完全に力が抜けたことを見た春菜が、悠然と立ち上がる。

「くっ……」

 その姿に気圧されたわけでもあるまいに、残った生徒の片割れがわずかに声を漏らした。

 五対の視線に射抜かれ、生徒二人は明らかに怖じ気づいていた。完全な劣勢だ。

 だが、それでも構えだけは頑なに解かない。

 両者の間に、奇怪な均衡が生まれる。

 いくらかの間を置いてから、進司の足がすり足でわずかに前に進んだ。

 均衡が破れかけたその時。

「ま、こんなもんだろ。鴻、いい加減そっちも止めてくれ」

 若い男の声が新たな均衡を産んだ。その声は姿を伴ってその場の人間に認識された。

 太いサングラスを掛けた痩躯の男性。年齢はまだ二十をいくつか越えた辺りだろうか。黒いスーツを隙なく着こなしている。

「そーね。これ以上怪我人増やしてもしょうがないか」

 次いで現れたのは、美佳だ。近くの木から飛び降り、平然とした足取りで制服のスカートを揺らしている。

「ちょっ? え? な?」

 混乱した声を出したのは春菜だった。美佳と男とをせわしなく見比べながら、言葉にならない疑問符を吐き出している。

 進司と正器は困惑の表情を浮かべているが、油断せずに周囲を警戒している。

 そして、紗夜香とほたるは――意外にも平然としていた。いや、厳密には違う。二人は、納得したと言わんばかりの表情を浮かべている。

 だが、二人は例外だ。ここにも、納得のいかない様子を露出させている人間達がいた。

「どういうことですか!?」

「一体……!!」

 初めて、仮面の生徒達が感情を露わにした。問いつめるように声を張り上げる生徒達。

「あーきちんと説明してやるから、少し待ってろ。ほれ、とりあえずこっちに来てろ」

 男は、生徒の口を押しとどめるように言いながら、手招きした。渋々という感がありありと分かる気配で、生徒二人は男の方へと歩いていく。

 美佳は男と対峙するように足を止めた。それを見て、男は口を開いた。

「鴻。そいつら、本当に一年か? 妙に慣れすぎてるぞ」

「あら? そっちの作戦ミスでしょ? 奇襲かければ勝ってたのに、わざわざ正面からぶつかってくるんだもん。そっちだって十分並の一年生以上よ。正々堂々にこだわったそっちの落ち度」

 肩をすくめて返答する美佳。その声には、どこか皮肉るような調子が込められている。

「ふっ、それもそうだな」

 そして、男も同じような調子であっさりと同意してきた。

(やっぱりそうだったんだ)

 紗夜香は、改めて自分の考えに確信を抱いた。これが、指導の一環であることに。

「どういうことですか……?」

 正器が、どちらに対してともなく問い掛けた。

 だが、半分はもう答えに行き着いているのだろう。その声は、疑問というよりは確認に近い響きがある。

「そうね。種明かししないとフェアじゃないもんね」

 振り返って、美佳はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「ま、私の今の境遇は紗夜香に話してあるから省略させてもらうわね。で、つまり私とあいつは、上からの指示で仮想敵になってるわけ。その天馬を守る側と奪う側でね。条件として、私らはその奪い合いに介入したらいけなくて、んー言葉は悪いけど駒を用意して奪い合いをしろってことだったわけ。舞台は学園高等部敷地内。あ、もちろん学園側の承認は得てるわよ」

 美佳は、そこまでを一気にまくし立てて言葉を止めた。

「そんでもって、俺らが駒ってわけか? ったく、やれやれだな」

 正器の皮肉げな口調に堪えた様子もなく、美佳は、あっさりと「ええ」と頷いた。そして、続けて機先を制するように言葉を連ねる。

「あ、怒っても仕方がないかもしれないけど、怒ったところで無駄よ? 一年生の全員が、何らかの形でこういう訓練を受けることになるんだから。単位には含まれないけどね。もっとも……」

 そこで一旦言葉を切り、ちらりと翔の方へ視線を走らせる。

「今回みたいのは滅多にないだろうけど」

 と、混乱から立ち直り、ようやく理解し始めた春菜がびしっと手を挙げて疑問を差し挟んだ。

「あのー最初から私達もその中に組み込まれてたんですか?」

「巻き込まれる可能性は考えてたけど、組み込んでは無かったわね。こういうミッションの場合、下手に人数確保するとかえって不自然になったりするから。向こうは、一年生の誰かが天馬をかくまっている、って情報だけで探り当てないとならなかったわけだし」

「おい、鴻。俺達はそろそろ行くぞ」

 男が、タイミングを見計らったように声をやや張り上げてきた。

 声の聞こえた方に視線を向けてみると、男は仮面の生徒二人と共に、そこら辺でのびている仲間を抱え上げているところだった。

「あーそう。んじゃ、お大事にねー」

 ひらひらと手を振る美佳。男はそれに後ろ手で応えながら、五人と共に去っていった。

「さてと、あらかた説明は終わったし、お暇させてもらおうかしら。これ以上答えられることもたぶん無いしね。それに、報告書も書かないとならないし、序列戦の準備もあるしで忙しいのよ。ウェイ、そろそろ帰るわよー」

 美佳は、質問を断絶するように言葉を並び立て、仕上げとばかりに翔に向かって言った。

 紗夜香の腕に抱かれていた翔――ウェイが、その声に反応して、その腕から抜け出した。

 そして、滑らかな飛行でもって美佳の肩の上辺りへ来ると、ぴたりと静止した。

 それを見た紗夜香が、ショックを受けたように固まった。そして、いくらかの沈黙を挟んで、ウェイに問い掛ける。

「ひょっとして……全部演技だったの?」

 哀しげに問う紗夜香を見て、ウェイが視線を逸らした。

「紗夜香……」

 ほたるが、気遣わしげな声を発する。

「紗夜香、本当に全部が演技だったか、それはあんたが自分で見つける答えよ」

 美佳は真摯な口調でそんな言葉を投げかけた。

「じゃ、みんな、ご苦労様。色々悪かったわね。ありがと」

 ぺこりと軽く頭を下げ、美佳はくるりときびすを返した。

 その後を、ウェイが滑るように飛んでいった。



 空気が重かった。湿気を多量に含んだ空気は重く、昼間の熱気をその内に閉じこめているかのようだ。

 しかし、そんな中にあっても、月だけは朧に光を発し、美しさを主張していた。

 月光は幾ばくかの影を払拭し、世界が闇に閉ざされるのを妨げている。

 だが、同時に闇の静寂を打ち壊すこともなく、見事な調和を示していた。

 夜の静けさは、誰に犯されることもない。打ち壊されることもない。木々のざわめきと草の声、そして虫の音だけが、彩りという名でもって静寂を震わす資格を持つ。

 その場所の中心に、ベンチや敷き詰められたレンガなどの人工物があろうとも、それらはただの聴衆に過ぎない。そして無論、そこに存在する人間であっても。

 ベンチに座り、自然のオーケストラの演奏に耳を傾けながら、ぼんやりと月を眺める少女。

「自分で見つける答え……か」

 少女の口から、オーケストラの中に埋もれてしまう程の小さな小さな呟きが漏れた。

 七海 紗夜香は、自然のルールを知る人間だ。調和の取れた静寂を乱すような無粋なマネはしない。

 心の中で言葉を発し、心の中で反芻し、心の中で考える。

(演技……か。演技だったのかな?)

 演技という言葉は、自分が発したものだ。そして、だからこそしこりのように心に沈殿して離れない。言葉としても、意味としても、紗夜香にとって重いものなのだ。

 紗夜香は背もたれから背を離し、足下で横になっている翠泉の頭に手を伸ばした。

 頭に触れると、流れるような毛並みが紗夜香の手の平をくすぐった。翠泉は、されるがまま、気持ちよさそうに表情を弛緩させている。

 肩に乗っていた緑玉が、紗夜香の頬に自分の頬をこすりつけてきた。慰めてくれているのだと分かった紗夜香は、反対の手で緑玉の小さな頭を撫でつけた。

(翔は……同じ顔、してた)

 ふと、紗夜香はそんなことを思った。同時に、全ての符号が紗夜香の中で一致した。

(そっか、そういうことなのかな)

 『翔』は、自然体だった。いくらか演技の部分はあっただろうが、そのほとんどは自然体だった。少なくとも、紗夜香といた時に『ウェイ』でいたことはほとんどなかっただろう。

 紗夜香にだって、ほたるにだって、正器にだって、進司にだって、春菜にだって、美佳にだって――そして、翠泉や緑玉にだって、色々な自分があるのだ。

 あれから半日近く悩んでいたというのに、答はずいぶんあっさりしたものだった。

(やっぱり、夜って好きだな。いろんな事が見えてくる)

 雑多な事象が混沌としている昼間よりも、夜の方がそのものの唯一を見極めやすい。わざわざ紗夜香が寮の部屋から出てきたのは、混沌から唯一を探し出せると思ったからだった。

 紗夜香は、思い悩むと必ず夜に外へ出る癖があった。小学校高学年頃からの、周りからは奇妙だと言われる癖だった。

 確かに、と自分でも思う。夜が好きな子供なんて奇妙なだけだろう。

 紗夜香とてもはや子供ではない。夜が欲望の象徴であることも知っている。しかし、紗夜香にとって夜は、そういう深淵に当たる部分を差し引いても、昼間より好感の持てる時間なのだった。

(もう少し、ゆっくりしていこうっと)

 翠泉と緑玉を撫でるのをやめ、紗夜香は背もたれに背中を預けた。そして、月へと視線を向け、自然のオーケストラに耳を傾ける。

 夜が更けるまで、紗夜香は自然の鑑賞を続けた。

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