学園の第三番寮・サクラ寮の一室では、苦しげなうめき声があがっていた。 そのうめき声の主――庫裡 春菜(くり はるな)は、まるで暴れるようにベッドで寝返りを繰り返している。 「う……ぅ……ぅ……ぃゃ……」 かすかに開かれた口から苦悶の声を漏らしつつ、一層大きな寝返りをうった直後、突然、喉が張り裂けんばかりの悲鳴をあげた。 「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 その拍子にベッドから転がり落ちて目を覚ましたらしい。見開いた目は焦点がぼやけ、肩では荒い息を吐いている。 「ゆ……め?」 ここが部屋であることを認識した春菜は、安堵したように大きく息を吐くと顔を右手で覆った。 (なんだって……あんな夢を……) くしゃりと右手で前髪を掴み、春菜は唇をぎゅっとかみしめた。そうすれば、唇に走るかすかな震えが広がらないとでも言うように。 (学園入ってから、見なくなってたのに……。もう、見たくもないのに…………!) 蝋で固めたような表情の中、伏せた瞳とかみしめた口元だけが泣きそうだった。 自身の奥底に刻まれた傷が、かきむしられるように痛い。空いた手が、無意識に自身を抱え込む。 それが意味のないことだと分かってはいる。だが、無意識に体は傷を隠そうとする。 「がっこ……行かなきゃ……」 そう口をついたのは、今の居場所なら……表面だけでも忘れられると、分かっていたからかもしれない。 ベッドを手がかりにおぼつかない様子で立ち上がった春菜の目に、ふとカレンダーが入ってきた。 二月十四日に、目立つよう赤い丸がついている。 「ああ、そっか……」 今日はバレンタインデーの三日前。学園の女子達も、もう浮かれを通り越して忙しくなる頃だ。 だが、同時に春菜にとってはもっとも忌々しい日だった。更に運の悪いことに……昨日、男にまつわることで不愉快な思いをしたばかりだった。そのときの台詞と今日という日が、悪夢をよみがえらせたのだろう。 不愉快な夢を意識の端に追いやろうとしても、内容が実体験だけにあまりにリアルに残りすぎている。 (そういえば……人にあんな表情させたの、はじめてかもしれない) だから、春菜は昨日の体験を――不本意ながら――頭に浮かべていた。 放課後。人気の無い屋上からは、透き通るような青空と綿菓子のような白い雲が苦労せずに見える。こんな日は昼寝でもしたい、そんな風に思う人間も少なくないだろう。 しかし、春菜の意識に空とか昼寝とかのんびりとしたものは入っていなかった。むっつりとした表情ととげとげしい態度で歩いていき、フェンスでもたれかかっている男の数歩手前で足を止めた。 「で? こんなところに呼び出してなんの用ですか?」 春菜に気づいてきざったらしく姿勢を直した男に向かい、春菜は雰囲気と違わない声を放つ。一応上級生だけに敬語を使ってはいるが、はっきり言って敬う態度など欠片もない。 さすがに一瞬むっとした表情を浮かべた男だが、すぐにきざったらしい笑みを浮かべた。 「春菜ちゃん、だったよね?」 「……そうですけど?」 なれなれしさと相反する確認のような声音に、春菜は腕を組んでジト目を流す。だが、男は気にした風でもなく一歩前に出る。 「俺とつき合わない?」 浮ついたかっこよさ――そんな表現が、男の表情とぴったり一致した。 「ごめんなさい」 冷たく即答し、春菜はきびすを返した。 「ちょ、ちょっと待てよ!」 一瞬呆けていた男だったが、自分がふられたのだと分かると、焦った様子で春菜の手を掴んだ。 「っ!」 反射的にふりほどくと同時、射抜くような視線を向ける。 「なにすんの!?」 「なんだよ、ちょっと手を掴んだくらいでそこまで怒ることないだろ?」 そんな視線を向けられるのは心外、とばかりに男は顔を渋らせる。 「いいじゃないか。今まで知らなかった楽しいこと、色々と教えてやるぜ? 唐変木で朴念仁の山路なんか追っかけてるよりよっぽどいいと思うけどな?」 にやついた笑みを浮かべながら、粘り着くような声と視線を向けてくる男に、春菜はこらえきれず嫌悪の表情を向けた。 「いらないお世話です。おおかた、体目当てなんでしょう? はじめてっぽいから声をかけた……そんなところじゃないんですか?」 汚物でも見るような視線とあからさまな侮蔑の声音を向けられ、男の顔に恥辱と怒気の赤が走った。 「失礼します」 とげとげしく言い放ってきびすを返すと、何事もなかったかのように屋上を後にしたのだった。 もたもたと身支度をしながら物思いに耽っていたら、夢のことはなんとか頭の片隅にしまい込むことができた。その存在を忘れてしまったわけではないが、少なくとも笑うのに支障はない。 「それにしても……ムカツク」 ただ、逆に怒りがふつふつと湧いてきて、そっちのせいで笑うどころではなくなってしまっていた。 「あーもう、なんなのよ、あの人の態度。ロクに人のこと知りもしないくせに『つき合わない?』なんて……一体その台詞はどこから出てくんのよ」 恋愛をゲームのようにしか考えていない軽薄な男など、最低としか表現できない。頭から湯気でも出ていそうな春菜は、乱暴に鞄をひっつかんで扉へと向かっていった。 「あーもう、訓練棟かどっかで体動かしてかなきゃやってらんない!」 そんなわめき声が聞こえたと思ったら、扉が盛大な音を立てた。 * * * 一日というのは、密度が濃ければ濃いほど長く、そして早く過ぎていく。単に早く過ぎるだけのようにも思えるが、充実した時間は思い返せばたくさんのことを残してくれる。満足に値する時間は、決して過ぎ去りはしないのだ。 「んー。すっきりしたぁー」 夜空から降り注ぐ淡い光が、伸びをした春菜の影をくっきりと地面に写した。 影と踊るようにくるりと身を翻した春菜は、訓練棟から続いて出てきた二人に、すっきりとした笑顔を向ける。 「二人ともつき合ってくれてありがと」 先に出てきた七海 紗夜香(ななみ さやか)は「別に」と、月光を浴びていっそう端正に見える顔を横に振った。 続いて出てきた山路 進司(やまじ しんじ)もまた、「俺も訓練になったから」と笑顔で首を横に振るのだった。 並んで歩く三人を追いかけるように、くっきりとした影がひょこひょこと動いている。 四時間ほど全力で体を動かした疲れなど微塵も感じさせない、確かな動き。むしろ、色々と溜まっていたものが発散できた分、影の動きは軽やかかもしれない。 「それにしても、春菜ちゃんってさぁ、格闘系に転向するつもりなの?」 「ふえ? なんで?」 「ナチュラルフルエンハンスだっけ? あればっかり使ってるから。それに、なんだか効率もよくなってるみたいだし」 「あーんー別にそういうつもりはないんだけど……」 困ったような表情で苦笑する春菜の口から、明確な否定はでてこなかった。 ナチュラルフルエンハンスは、肉体能力や精神能力を飛躍的に上昇させる魔法を魔法的な手順を踏むことなく起動できる、という体質の名前だ。 現在確認されているエンハンス魔法――肉体能力・精神能力の向上魔法――のほとんどが、一瞬で起動・解除できるという優れものであるが、向上した能力を発揮するために多量のカロリーを消費するという欠点があり、使用しすぎると栄養不足で死に至るという側面も持っている。 高等部入学当初の春菜は、総合時間で五分程度しか起動させていられなかった。しかし、中等部含めて四年のつき合いと訓練が功を奏したのか、今は総合時間で二十分近くの起動ができるようになっている。 進司は、めざとくこの変化を捉えていた。 (……でも、どうしてそうなったのかは分かってくれないんだよねぇ) 春菜は、自分の行く末を、後衛ではなく前衛での援護に求めた。 この体質を効率よく使えるようになれば、前線で身を守りながら戦士を援護することができるようになるだろう。自分の求める場所に進む資格を手に入れることができる。 前線で肩を並べたい――春菜がそう思ったのは、進司に加藤 彩音(かとう あやね)という許嫁が現れてからだった。 彩音は剣士、肩を並べて戦える。そのことに嫉妬を覚えた春菜は、自分にできる方法で進司の横に、彩音と同じ位置に立とうとしたのだ。 しかし、それを含めて、進司は春菜が彩音に向けた「宣戦布告」の意味に爪の先ほども気づいていない。 「そっか。でも、あんまり無理しない方がいいよ? それで倒れたら元も子もないんだから。いくら平気になってきたからって、食べる量減らしたりしたらダメだからね」 「う、うん」 鼓動が跳ね上がるほど真摯な表情の進司に、春菜は嬉しさと悔しさが混じったような表情を返すことしかできなかった。 「そういえば……つい夢中になっちゃったけど、夕御飯、まだあるかな?」 食べる、ということで思い出したのか、進司がさも重大ごとのようにうなった。確かに育ち盛りには重要なことだが……ちょっとよくなりかけた雰囲気がぱぁだった。 「あぁっ! いけない、わたし、お弁当箱置きっぱなしだった!」 そして、更にぶちこわすように春菜が情緒もへったくれもないような叫びをあげた。 「お弁当箱って、使い捨ての?」 今まで雰囲気を察して沈黙していた紗夜香が、小首を傾げた。補給と称して春菜が間食していた購買の弁当。箱、というほど立派なものではないが……確かに、ゴミを捨てた記憶はない。 「うん。ごめん、わたし捨ててくるから、先に戻ってて」 言い終わるか終わらないかできびすを返して駆け出す春菜。止める暇もない。 「律儀だなぁ。掃除の人、いるんだから任せればいいのに」 進司が感心したようにぼやく。毎朝、雇われた清掃の人間がきれいに掃除してくれるのだから任せればいい、というのは紗夜香も同感だった。 とはいえ、春菜の思うところがそんな律儀なだけのものではないと、紗夜香はお見通しだった。 だんだんと闇夜に紛れていく春菜の背中を、二人は沈黙で見送る。互いに、待ってようか、とも先に行ってようか、とも言い出せない奇妙な沈黙だった。 言い出せない原因は、紗夜香にあった。紗夜香が、夜目にも分かるほど冷たい視線を向けている。 ただならぬ視線が向けられていることを自覚しているだけに、進司は何も言い出せないし、紗夜香はもとより言い出すつもりがない。 「……何、やってんの?」 ようやく破られた沈黙は、しかし視線以上に冷たかった。 (怒ってる……) 進司に悟れる感情はそれだけだった。何を怒っているのか分からない。 恐る恐る、進司は口を開いた。 「何ってな……」 「なんでぼーっとしてるの?」 途中で遮られ、更に数度は落ちた声音で問われる。進司は、紗夜香からにじみ出た冷気が肌に突き刺さっているような錯覚を覚えた。 「まさか、夜道を、女の子一人で、帰すつもり?」 紗夜香にしては珍しいほどに当てつけがましい抑揚だ。もはや問いかけにすらなっていない。 「え、あ、いや……」 「さっさと行く!」 なおも渋る進司だったが、紗夜香の耐えかねたかのような一喝で、転がるように駆け出す羽目になった。 「まったく……なんでああも唐変木なんだろ」 深いため息が、白い息と一緒に夜空に溶けていった。 訓練棟の中は、月明かりなど話にならないほど煌々とした明かりが灯っていた。 夜の十時まで開放されていることもあり、夜の入り口という時間では灯りが絶えることはない。 だが、部屋から音が漏れてこないために、廊下は耳が痛いくらいの静寂をまとっていた。 そんな廊下に、春菜の靴が廊下を叩く硬い音だけが反響していた。 (ちょっと……わざとらしかったかなぁ) 先ほどまでのやりとりを思い出し、春菜はわずかに頬を赤くした。別に逃げ出すほど居心地が悪くなったわけではなかったのだが……気づいたらもう駆け出 していた。 進司に不思議がられることはなくても、紗夜香にはバレバレだろう。 とすると、進司をけしかけてくる可能性が高い。なんのために逃げ出したのよ、と後で文句の一つも言ってやりたいところだが、嬉しさもあるので強く言えるわけもない。 (結局、見透かされてるんだもんなぁ) 足音に紛れるくらいのため息が漏れた。それは、紗夜香のお節介に、ではない。自分の情けなさに対するため息だった。 紗夜香は、見透かしているのだ。近づきたいと思っていながら最後の一歩を踏み出せない臆病さを。 近づきたい、そう思っても、「男」という存在への恐怖が最後の一歩を踏みとどまらせる。 いくら理性で進司は大丈夫だと思っていても、いったん植え付けられた感情はなかなか拭えるものではないのだから。 (嬉しくない……わけじゃないんだけどね……) 純粋に嬉しいとは思う。けれど、話せることじゃない。ただ、紗夜香はなんとなく感じているのだろう。だから、近づけようとしてくれている。 「ほんと、お節介なんだから」 今度は苦笑が漏れた。あのあまり変化しない表情の下で何を考えているのか、知りたいような知りたくないような……好奇心を刺激される相手だ。 考え事をしている内に、先ほどまで使っていた部屋へとたどり着いていた。後に使っている生徒もいないらしく、鍵は閉まったままだ。 鍵と扉を開けると、背中から飛び込んだ光が暗闇に影を映しだす。 春菜がなんの気負いもなく足を踏み入れた直後。 突如として背後に気配がわき出た。 「え……!?」 弾かれたように振り返った矢先、肩の辺りを突き飛ばされた。 (何!?) 逆光のためか、今まで背後だった場所に影が立っていることしか分からない。反射的に踏みとどまろうとするが、足を押されてそれもままならなかった。 「っ!」 軽い舌打ちと共に、春菜は受け身を取って起きあがった。 と同時に駆け、暗闇の中に身を紛らわそうとする。 そんな春菜に、相手は何かを打ち出してきた。 「っ……!」 動きを止めたと同時、よけようもないタイミングで迫る何かに気づいて手をかざした。手首のあたりに小さく鋭い痛みが走るが、大したことはない。 闇に身を潜め、息を殺しながら春菜はそこに視線を走らせてみた。 (針……?) 手首のあたりに刺さっていたのは、縫い針を大きくし、少し太さを削ったような細長い針だった。武器、というにはいささか頼りない。 春菜は針を抜き取ると、制服のポケットにしまい込んだ。投げ捨てたりすれば位置がバレてしまう。 相手の動きを見定めるように、春菜はじっと目を凝らす。 だんだんと闇に目が慣れ、相手の姿形が確認できるようになってきた時……相手が動いた。 瞬間、春菜は自分がどこにいるのかを失念していたことに気づいた。春菜が次の行動を起こすよりも早く、室内灯が目を灼いた。 「くっ……!」 目を細めて最小限に被害を食い止め、そのまま春菜はナチュラルフルエンハンスを起動、地面であれば土煙を吹き上げるほどの力で床を蹴った。 「つ――?」 その刹那、春菜は頭に突き抜けるような痛みを感じ、がくんと失速した。 絶える間もなく前のめりに倒れ、それでも勢いは止まらずに転がる。あまりに突然のことで受け身すらとれなかった。 「つ……」 春菜がうめく。それを待っていたかのように、相手が動いた。もったいぶるかのようにゆっくりと近づいてくる。 「くっ……」 春菜は全身に広がる痛みをこらえて立ち上がり、再びナチュラルフルエンハンスを起動しようとする。 「う……」 だが、頭に割れるような痛みが走り、春菜は膝をついた。 突然発生した鈍い痛みに顔をしかめながらも、春菜は再度起動を試みるが、結果は同じだった。 その間にも、相手はゆっくりとした動作で近づいてくる。 「ど……く……?」 先ほどの針――春菜は、武器になりそうもなかったそれが毒針であることに思い至った。 相手――学園の制服を着た男が、うずくまる春菜の頭を突き飛ばした。 訓練棟の灯りの下に入った瞬間、進司は唐突に思い至ったことがあった。 「そういえば、紗夜香ちゃん、一人に……」 思わず紗夜香の声に飲まれて走ってきてしまったが、紗夜香も一人の女の子だと、ようやく思い出したのだ。 だが、ここで戻っても零度の視線を向けられるだけだという確信がある。 「えーい、春菜ちゃん連れて走るしかないかっ」 波風を一番立てない方法は、それしかないようだった。進司は、さっきまで使っていた部屋へと走っていく。 と、階段を上り、廊下へ出た途端、進路を阻む影があった。 「っと!」 ぶつかりそうになったが、危ういところで留まることができた。 「大丈夫か……?」 ぶつかってはいないはずだが、進司は念のために尋ねる。 相手は、軽薄そうな笑みを張り付かせたガラの悪そうな長髪の男。無理矢理大物ぶろうとしているような、ちぐはぐな高慢さがあった。 その口から返ってきたのも馬鹿にしきったような声で、しかも進司の問いとは全く別の言葉だった。 「悪いけど、ここからは通行止めだぜ」 「はぁ?」 怪訝な表情の進司の進路を阻むように立ちふさがる男。進司が右へ視線を走らせれば右に、左に走らせれば左にと、ちゃらちゃらしているように見えて隙がない。 「通してくれませんか? 知り合いがこの先にいるんですけど」 上級生であることが分かったので、訝しみながらも伺いをたてる。 「だから通行止めだって言っただろ? それに、しばらくここにいるが誰も通ってないぜ」 「いや、そんなはずはない。さっき、この先で知り合いと訓練をしていて、その子が忘れ物を取りに戻ってきたんだ」 「入れ違いになったんだろ」 「階段は一つしかないのに?」 ちぐはぐな問答に、さすがの進司も眉じりをつり上げる。 「とにかく、通してもらい……」 『こな……!』 無理矢理にでも通ろうとした瞬間、女生徒の悲鳴が響いた。扉が閉められたらしく途切れてしまったが、間違いなく春菜の声だ。 「春菜ちゃ……ぐっ!?」 駆け出そうとした進司の腹に、いきなり拳がめり込んだ。 「だから言ってんだろ、ここは通行止めなんだよ」 顔を強面に染めた男が、めんどくさそうに進司を見下ろしていた。 「貴様……」 「ガキはとっとと寮に帰え……ぐぼっ!?」 余裕の笑みを浮かべていた男の鼻っ柱に進司の拳がめり込み、男は無様に吹き飛んだ。 「春菜ちゃん!」 そのままぴくりとも動かない男を完全に無視し、進司は駆け出した。 間もなくさっき使っていた部屋の前に着いたのだが、鍵がかけられているのか扉はびくともしない。 鍵は春菜が持っていっているはずだ。予備の鍵を取りに行く暇など無い。 (ぶち破るしかないな……) 扉はその性質上、ちょっと強いていどの攻撃魔法を当てたくらいでは破れないほどの強度を誇るのだが…… 「すー…………うおらぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」 進司が怒声を上げて肩から扉にぶつかると、破裂音にも似た音をたてて扉が吹っ飛んだ。同時に室内に駆け込む進司。 部屋の中の空気は、突然の出来事に凍っていた。 室内にいるのは十数人の男達。服装こそまばらだが、学園の生徒だろう。 そして、その中の数人に組み敷かれ、肌を大きく露出している春菜。 どくん、と心臓が高鳴った。 進司は、その直後、はじめて頭の中で何かがキレる音を聞いた。 「何やってんだお前らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!」 進司の咆哮が、空気を鳴動させた。春菜を組み敷き、かつ進司の一番近くにいた男が吹き飛ぶ。 誰一人として、その動きを追えたものはいなかった。男が壁に激突した音で、はじめて何かが起こったと認識しただけだった。 男達が半分パニックに陥っている間に一人、二人と吹き飛び……いつの間にか春菜を組み敷いていた男達は、軒並み床でぴくりとも動かなくなっていた。 「な……」 気が付けば、十数人いた男達は半数近くにまで減り、しかも全てが進司の殺気を正面から受け止めざるを得ない状況で固まっていた。 「くっ……撤退!」 進司の圧力に耐えきれなくなったリーダーらしき男が裏返った声で叫んだ。それを心待ちにしていたかのように、男達は扉へと殺到、押し合いながら逃げ去っていった。 気配が完全に遠のくのを確認してから、進司は大きく息を吐いて力を抜いた。 「大丈夫? 春菜ちゃん」 振り返り、未だ呆然としている春菜に優しく声をかけると、春菜はようやく焦点を合わせたようだった。 「しん……じ……くん?」 「うん。もう大丈夫だから」 しゃがみ込み、安心させるように笑顔を浮かべる。すると、春菜はみるみる内に目を潤ませ、しゃくりあげはじめた。 「ふえ……怖かったよぅ……」 ボロボロと涙を流し、声をあげて泣く様は、まるで子供のようだった。 「もう大丈夫だから、大丈夫」 少しためらったあと、進司は春菜の頭をなでた。 こんなことくらいしかしてやれない、そんな自分をふがいなく思いながらも、進司は春菜が泣きやむまで、ずっと柔らかい髪に包まれた頭をなで続けていた。 * * * 放課後の喧噪の中を歩く紗夜香の表情は、いつも通り感情が薄かった。 だが、見る者が見ればその眉が若干いつもより吊り気味で不機嫌なのが分かっただろう。 「正器君」 目的の教室の入り口から声をかけると、気づいた正器が分かっているという風に頷き、歩いてきた。 「場所を変えるぞ」 すれ違うようにしながら小声でつぶやき、そのまま通り過ぎる。うなずき返し、紗夜香もきびすを返した。 「分析は終わったの?」 やや早足になって正器に並び、紗夜香は声を潜める。 「ああ」 あまり人に聞かせたくない話だからか、正器は短く返しただけで黙り込んでしまった。 その意図を汲んだ紗夜香もまた口をつぐみ、二人は無言のまま喧噪をすり抜けていく。やがて二人がたどり着いたのは、人気もほとんどない実験棟への渡り廊下だった。 「で?」 「お前が思ったとおり、あれは毒だ。多少知識があれば誰でも作れるようなずさんなものだったがな」 「そう。やっぱり。緑との会話にノイズが走ったから、そうじゃないかとは思ったんだけど……」 紗夜香は昨夜、春菜の身に起こったことの大枠を知っていた。自室に戻った直後に進司に寮の入り口まで呼び出され、ボロボロの服をまとい泣き顔をした春菜の世話を頼まれたからだ。 その時に破れた制服をチェックしていて、ポケットに入っていた針――先端に細工がしてあり、刺さると液体がしみ出てくる仕掛けが施されていた――に指を刺してしまい、心配した緑の声が、走り抜けた頭痛で邪魔されたのだ。 すぐに毒物だと見当をつけた紗夜香は、今朝早くに毒物の知識がある正器に鑑定を依頼したのだった。 「マナの遮断かなにか?」 体質的に魔物全般との会話ができる紗夜香は、会話の媒介物がマナであることを知っていた。だからこその考えだったのだが、正器は首を横に振った。 「痛みによって集中力を削いで魔法を使えなくする毒物――『メイジスローター』だ。活性化した神経を伝って、痛みで問答無用に魔法の集中を遮断する。今日、昨日の技術で作り出せる毒じゃないな。もっとも、意外にずさんな作りだったところを見ると、毒使いってほどでもなさそうだが」 「よくそこまで分かったわね。毒物の分析って時間かかるのに」 「午後の授業は全部サボった」 「……大丈夫だったの?」 「平気ではない。だが、いつまた春菜が襲われるかわからんからな。午前中はサボれない授業だったからやむを得なかったが……そうじゃなかったら昼には具体的に動いてる」 伊達眼鏡の向こうから、射抜くような視線が刺さってくる。もしこんな眼光で一日を過ごしていたのだったら、さぞクラスメートは居心地が悪かったことだろう。 「で? そっちは何か分かったか?」 「残念ながら。進司君が夕べ何人か倒したらしいからそっちを探ってみたんだけど、こっそり回復したんだろうね。保健医の手を借りたわけじゃなさそうだった。訓練棟の近くで不審者を見なかったかって線でも追ったけど、夕飯時に近かったからかな、そういう話もなかったし。あとはその毒くらいね。その毒、手かがりになる……?」 「毒は無理だな。だが、この針からなら可能かもしれん。仮にも春菜に針を突き刺したんだ。実力は上級生の中の中以上、その中で暗器使いで毒も使う……となれば限られてくるはずだ」 「なら、私は女子のうわさ話の方向から調べてみる。内々に流れてる情報っていうのもあるだろうから」 「ああ、頼む。……そういえば、今の護衛は倉品か?」 「うん。ほたるについててもらってる。ほたるって情報収集とか苦手だし。ある意味露骨だから、近づかせないっていうなら適任だしね」 「まぁ、肝心の所でポカやらかすヤツじゃないから平気か」 「ええ」 「よし。なら、馬鹿の特定を急ぐか」 正器は、温度の低い瞳に、猛禽類のような鋭い光を宿した。 正器と連れだって渡り廊下を戻り、喧噪の中に戻った時だった。 「紗夜香! それに正器!」 血相を変えたほたるが、二人を呼び止めたのは。 「あかん! 春菜が消えた!」 「なんだって!?」 「どういうこと!?」 顔色を変えた二人の元へ走ってくると、ほたるは二人を渡り廊下へと引っ張る。 「すまん。トイレを廊下で待っとったんやが、その間に消えてしもた。争う音なんかはなかったから、拉致られたとかやないと思うんやけど……」 「護衛の件、春菜には伝えたのか?」 「私から。具体的に護衛とは言ってないけど……たぶん事情をみんなが知ってることは、雰囲気的に分かってると思う」 「倉品。進司は?」 「え? 来てへ……あ、そういえば、階段を急いで降りてったような。声かける暇もなかったし、離れるわけにもいかんから引き留められへんかったけど」 「ちっ。揃って罠にかかったな」 正器は、あからさまな舌打ちと共に顔をしかめる。見事に裏をかかれた。たかが強姦魔と思って侮っていたが、小賢しくもそれなりに知恵は回るらしい。 「ど、どゆことや!?」 「進司も春菜も、呼び出すチャンスはいくらでもあるってことだ。進司は言わずもがな、春菜もクラスが一人だけ違うんだからな」 「やられた……」 「急ぐぞ!」 これ以上の時間は惜しいとばかりに、正器は先導を切って駆け出した。 * * * 学園創立当初に作られた第一図書館は、敷地の奥の方、昼間でも薄暗い森の中に建っている。 中には今では採取できない材料を使った薬物の調合法や、生け贄を使った儀式の行い方といった学術的には貴重な蔵書が大量にあるのだが、一般的な生徒にとってはほとんど縁がないものばかりだ。 他にめぼしい建造物などがないことも相まって、『魔女の図書館』などと噂されて近づく者もほとんどいない。 だが、今日は違った。一足早く夜の帳が降りているような暗い図書館の裏手に足を踏み入れた人間がいた。 「出てこいよ」 油断無く辺りを見回し、警戒の声で言ったのは進司だ。左手に愛刀を携え、目をつり上げている。 「指示通り一人で来たぞ! 出てこい!」 張り上げた声が、冬でも枯れていない木々の隙間に飲み込まれていく。伸びた声が完全に消え去る直前、建物と反対側から、草を踏む音がした。 「ほんとに一人で来たのか」 「馬鹿か?」 口々に勝手なことを言いながら現れたのは、十数人の男達。うち数人、見えるところに包帯を巻いていたり絆創膏をしていたりする男達は、特別に強い怒りを進司に向けていた。 「約束通り来たんだ。春菜ちゃんにはもう手を出すな」 「イヤだ……つったら?」 「……全員、教師へ突き出す」 「はん! 一年のガキがこの人数相手にどうするつもりだ? いっとくが、夕べみたいにはいかないぜ?」 どこか茶化すようだった雰囲気が、一気に霧散した。男達が思い思いに構えを取るのに合わせ、進司もまた構えを取った。 (こいつらだけなら問題ないんだが……) 一人一人は、はっきり言えばさほど強くない。制服から三年生だと分かるが、序列で言えば、中の下あたりだろう。構えも隙だらけだ。 (問題はこいつだな) だが、一人、先頭に立った金色の短髪だけは隙というほどのものが見つからない。腰の後ろに右手を隠しているところから見ると、恐らく投擲系の武器を使うのだろう。 「どうした? 来ないのか?」 金髪の男があからさまに挑発してくるが、それにのるわけにはいかない。 「なら……こっちから行くぜっ!」 怒声の如く金髪が声を張り上げた瞬間、その腕が振り抜かれた。 「くっ!」 飛来する短刀を、進司は神速で抜刀した愛刀で弾く。一斉に突撃してくる不良達へ向かっていこう……とした刹那、ざくりと草を踏む音が背後で鳴った。 「なっ……!?」 「夕べみたいにはいかないって言っただろ?」 言葉と同時、進司は脇腹に小さく突き刺さる痛みを覚えた。反射的に新手に刀を振るうが空を切る。 「もっとも、俺はいなかったんだがな」 「ぐ……」 脇腹から、体の感覚が塗り替えられるようにしびれが広がっていく。ほんの数秒で足先と指先まで広がり、進司は刀を落として膝をついた。 やがて左半身にも波及していき、刺されてからほんの十数秒で、体全体が言うことを聞かなくなってしまった。 「く……そ……」 「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺の名前は久保 亮介(くぼ りょうすけ)。一連の首謀者さ」 新手の男――亮介は、地面に横たわる進司を軽薄そうな笑みと共に見下ろしながら、長い髪を掻き上げた。 「さて――」 亮介が酷薄な笑みを浮かべた直後、 「進司君!!」 「メインゲストの登場だ」 息を切らせた春菜が、悲鳴にも似た叫びとともに現れた。 * * * 「逃げろ! 春菜ちゃん!! 昨日のヤツラだ!!」 地面に伏したままの進司がしびれをこらえてできる限り声を張り上げると、春菜の顔がさっと青ざめた。足が一歩、後ろへ下がる。 「おっと、こいつがどうなってもしらないぜ?」 「なっ……貴様!?」 自身に刃が突きつけられ、進司は顔に怒りの朱を走らせた。それを見た春菜の足が止まり……亮介は、満足そうな笑みを浮かべる。 「ふふん。そうこなくっちゃな。こっちへ来い」 「来ちゃだ……ぐふっ」 「黙ってろ」 「やめてっ!」 進司が手加減無く踏みつけられたのを見て、春菜はたまらず悲鳴をあげた。傍目に分かるほど震え、顔面を蒼白にし、それでも気丈に前へと足を進める。 それを、冷笑で見守る亮介やその他の男達。愉快とはお世辞にも言えない視線を一心に浴びながらも、春菜はゆっくりとした足取りで亮介の元へと進んでいく。 「狙いは、俺、じゃない……のか?」 「違うね。お前は餌であり枷さ。ついでに、起爆剤にでもなってもらえれば御の字ってとこだな」 「何を……する、気だ」 「こうする……のさ!」 薄ら笑いに嘲笑を混ぜたような表情で進司を見下ろしたまま。亮介は近くまで来た春菜の服に手をかけ、一気にそれを破った。 「ッッッ!?」 恐怖に息をのみ、春菜は胸元を手で覆った。足から力が抜けたのか、哀れなほどに体を震わせながら座り込んでしまう。 「き……さまぁ……」 「はっはっはっ! いかれよ、もっと。いかったところで助けも来ないし動けもしないがな!」 亮介の言葉に、周囲の男達が大げさに笑う。だが、どんなに笑われていても、春菜が助けを求める視線を送ってきても、圧倒的な麻痺に支配された体の自由は戻ってこない。 悔しさにうめく進司を見て、亮介達は更に愉快そうに笑う。 「さて、この前はよくも馬鹿にしてくれたな?」 座り込む春菜に、亮介はぎらりとした視線を向けた。ぎこちなく首を横に振る春菜だが、亮介はそれすらも快楽としてしか見ていない。哀れな獲物を追いつめた肉食動物にでも自分を見立てているのか。 「……やれ」 亮介が告げた瞬間、男達が春菜に襲いかかった。 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」 一瞬で押し倒され、ばたつく抵抗を押さえつけられる。進司は、とっさに目をつぶり、可能な限り顔を逸らした。 考える前に起こった条件反射だが……亮介は、見逃さなかった。 「おっと、お前は目を逸らすなよ? 見てないと、消えない傷が残るかもしれないぜ? 一応、今はそのつもりはないが……」 「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!」 「きさ……まぁ……」 髪の毛を掴んで視線を戻される進司。呪詛のような声を出すが、その声は春菜の悲鳴にかき消されてしまう。 男達に体をまさぐられる春菜。目をそらすことを許されない進司は、男達の隙間からそんな春菜を見る羽目になっていた。 「く……そ……」 どうすることもできない。助けることも。戦うことも。目をそらすことも。耳をふさぐことも。悔しさに唇をかみしめても、痛みさえ今は感じない。 どんなに卑劣で劣悪で凄惨なことでも、起きていることを受け止めることしかできない。 ――守れない。 「やめて……くれ……やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ」 慟哭の如く叫ぶ声すら、自由にはならない。 進司の身をすり切らすような叫びを聞き、亮介は喉を逸らして声高に笑う。全てを見下すように笑う。 「思い通りにいくっていうのは最高だな!」 しかし、亮介の笑いとは反対に、男達は予想外の抵抗を見せる春菜に手間取っているようだった。 男の一人が春菜に蹴飛ばされた瞬間、進司と春菜の視線が絡み合う。 「あ……」 空気の抜けるような春菜の声が、周囲の音を飛び越えて聞こえてきた。春菜の目が見開き、一瞬で涙が浮かんだ。 進司は、それを間近で見ているように明瞭に見ていた。 「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!」 喉が張り裂けんばかりの悲鳴があがった直後、春菜を押さえつけていた男が一斉に吹き飛んだ。 まるで爆風が弾けたような吹き飛び方に、男達が驚く暇などなかった。 一陣の風が、暴風の如く吹き荒れた。 そのたびに男達は顔面を潰され、骨を折られ、喀血し、半死においやられる。先日の進司の比ではない。容赦のない暴風が、殺人をも厭わずに荒れ狂っていた。 「な、なんなんだこいつは……」 ものの数秒で三人にまで減らされた男達は、その惨状のあまりの異常さに腰を抜かしていた。 だが、春菜は止まらない。雑魚を片づけるのに急ぐ必要はないとばかりに、ゆっくりと亮介に向かう。 その目は血塗られたかのように赤く染まっており、もはや正気を保っているとは思えなかった。 「くそっ……!」 亮介は素早く腰から針を投擲するが、春菜はあっけなくそれをはじき飛ばしてしまった。 後ずさる亮介。同じ分だけ追う春菜。 そんな一方的な均衡も、長くは続かなかった。春菜の姿がかき消えたと思った瞬間、亮介は全身に突き抜けるような衝撃を感じ、瞬時に意識を失った。 だが、春菜の暴走はそれでも終わらないのか。まるで生きている者全てを憎むように、今度は進司へと向き直る。 その直後、建物の影から飛び出す者がいた。 「春菜!」 「『ストーンブラスト』!」 呼びかけと同時、隣に現れた影の一つ――紗夜香が魔法を放った。小石大の土塊が津波の如く春菜に殺到する。 だが、春菜は片手を薙ぐだけでそれらを軽々と吹き飛ばしてしまった。 その隙をついてもう一つの影――ほたるがハリセンを構えて春菜に突進していく。 「正気に戻らんかい!」 叫びながらハリセンを薙ぐが、これは軽々と受け止められる。 ほたるは思わず驚愕の表情を浮かべ……はしなかった。 「かかったな!」 にやりとした笑みで言い放つと同時、最初に呼びかけた正器が素早く接近、その首筋に小さな針を突き立てた。 途端、突き上げるように震えた春菜が、糸を切ったように崩れた。倒れそうになる春菜を、ほたるがかろうじて受け止める。 「春菜、大丈夫か?」 ぺしぺしと頬を叩くと、春菜がうっすらと目をあけた。 だが、自分がどういう状況にいるのかは理解できないらしく、ぼんやりと目を虚ろにしている。 「とりあえず、春菜ちゃんと進司君は保健室へ連れていって。私はここを見てるから……正器君、進司君を運んだら先生呼んできて」 「分かった。進司、大丈夫か?」 「ちょ、ほたる、待って!」 正器に肩を借りて起きあがった進司が、いくらかマシになった声を張り上げた。不機嫌そうに振り返るほたる。 「春菜ちゃん……あの……」 進司のためらいがちな声に、春菜の肩がぴくりと動いた。 進司がなんと声をかけるべきか迷っていると、ほたるが「え?」と訝しげな声をあげた。どうやら春菜が何かを言っているらしく、口元に耳を寄せている。 それから一つため息をつき、気まずそうに目をそらしながら言った。 「進司。……話したくないそうや」 * * * 保健室と言えば、消毒液の匂いが一般的だろう。 しかし、学園の――とりわけ、実験棟にあるこの第三保健室はその他諸々の薬品らしき匂いが混じり合っていた。だからと言って不快にならないのは、担当の保健医が工夫しているおかげかもしれない。 「しかし、なんでこう肝心な時にいないんだ……」 がちゃがちゃと棚を漁りながら、正器はひとりごちる。春菜達がいない上で一番近い保健室へと連れてきたのだが、運悪く保健医が不在だったため、自分で解毒剤を探しているのだ。 早くしないと紗夜香にどんな嫌みを言われるか分かったものではないのだが……どうしてか解毒剤が見つからない。 「こりゃ在庫切れか……?」 室内に備え付けられた五つの棚全てを漁り終わったが、結局見つからない。正器は舌打ち一つ、諦めたようにドアへと向かった。 「進司。他の保健室を探してくる。ついでに保健医も呼んでくるから少し待ってろ」 「ま、正器!」 「ん?」 扉に手をかけたままの姿勢で振り返ると、肘で半身を起こした進司と目が合った。 しばらく逡巡するように視線を動かしていた進司が、視線を逸らしたままで口を開く。 「そ、その……よ、よく分かったな、あそこにいるって」 「……ああ。運良く春菜が第一図書館の方へ向かってく姿を見たって生徒がいてな」 「そう……か」 何度も小刻みに頷く進司から少し目をそらし、正器はため息を一つついた。 (本当に運が良かった……。もう少し遅れてたら死人が出てたところだ……) そういう意味では、あの主犯のぬるい策にも感謝すべきかもしれない。かなり穴だらけの策だったからこそ、春菜を助け出せたのだ。 これからのことは頭が痛いが、最悪の事態だけはとりあえず避けられた。それは素直に安堵すべきことだろう。 正器はそう思い、視線を進司に戻した。 「まぁ、後でいろいろ聞かれるだろうから、今は休んでおけ。いくらかマシになってても、その毒は後遺症が残りやすい。きちんと解毒剤を飲むまでは無理に動くなよ」 「後遺症が残るか。その方が……いいかもしれん」 「……あ?」 ぽつりと発せられた進司の言葉が聞き取れず、正器は眉をひそめた。進司はまるで目をそらすように体を戻し、じっと天井だけを見つめる。 「俺は……何もできなかった。守ることも、助けることも。目をそらすことさえ……。脅されていたからじゃない……実際には目をそらせなかったんだ。あんなときだってのに……目が、離せなかったんだ」 進司の声には、ひどい苦渋と悔恨があった。男の性――そう言い切ってしまうのは楽だが、そうしきれない、それが人としての良心かもしれない。 ましてや、近しい者が対象であれば、苦しまない方がどうかしているというものだ。 進司から、続きの言葉が出てくることはない。正器も、おいそれと口を開けない。保健室には、重苦しい沈黙が横たわっていた。 「それで拒絶されたのに参ってる……ってところか?」 身を返し、扉に背を預けた正器が、進司に届くくらいのつぶやきで沈黙を破る。進司の体がわずかに震えた。正器は厳しい眼差しで進司を見据えている。 「春菜にしてみれば、お前に見られてるってことが何よりの痛みだったかもな。それだけ春菜にとってお前は大事なんだろう。……それだけ苦しむってことは、お前にとってもそうなんじゃないか?」 「……」 「こんな時に言うのもなんだが……こんな時じゃないと無理そうなんで言っておく。お前はもっと自分に向き合え。七海が、倉品が、春菜が、自分にとってどういう存在なのか……きちんと考えろ。それがお前のやるべきことだと思うぞ」 「どういうことだ……?」 「自分で考えろ」 突き放すように言い切ると、正器はさっさと保健室を出ていってしまった。 「自分にとってどういう存在なのか……か」 一人ごち、体の力を抜いて目をつぶる。 どう考えればいいのか分からないが……でたらめなことは言っていないだろう。春菜を思いやり、自分を気に懸けてくれての言葉だろうことは十分に分かる。 (自分に向き合え……) 何かから逃げていたのか。それとも気づかなかっただけなのか。 どちらにしても、もう正器の言葉を無視することはできなかった。 * * * まるで、時間が流れていないようだった。言葉も発さず身動きもせず、彫像のようにただじっとしているだけ。 自室のベッドで、春菜は戻ってきてからずっと俯いたままだった。その隣では、紗夜香がイスに腰掛けて文庫本を読んでいた。時たまページをめくる以外、動こうともしなければ声を発することもない。 まるで春菜に沈黙と温もりを与えている――そんな様子だった。 もう月が昇り、辺りは静まり返っていた。二人がこの位置についたのが日没で、それからかれこれ数時間、こうして時間を置き忘れたかのような雰囲気が続いていた。 「紗夜香」 蚊の鳴くような声が時間を動かした。紗夜香は、無言で視線を上げる。 「ごめんね。面倒ばっかりかけちゃって」 「……これくらいなら許容範囲だけど? ほたるがかけてくるのとあんまり変わらないから」 「ひっどいなぁ〜あそこまでかけてる?」 「……ん。少しでも笑えるみたいだし、もう少し下げようか?」 「そうして。さすがにあれと同じは良心が痛むから」 吹き出すように、くすくすと笑い合う紗夜香と春菜。置き忘れたものは、どうやら手の中に戻ったらしい。 ひとしきり笑った後、ぽつりと春菜が疑問を口にした。 「ねぇ、進司君、大丈夫かなぁ?」 「ん? 解毒剤は打ったらしいし、大丈夫だと思うけど」 「あ、そうじゃなくて……その、ショック受けてないかな、って」 「ああ。んーそれはちょっと分からないなぁ。正器君、そこまで言ってなかったし。朝一番で聞いてこようか?」 「え、う、ううん、そこまでしなくても……いいから……」 しゅんと縮こまってしまう春菜を見て、紗夜香は内心でため息をついた。言われて初めて心の機微に気づくような自分は、やっぱり色恋には向いてない――改めてそう思ってしまう。 なんと言葉をかけるべきか必死に探していると、突然、窓からノックが聞こえてきた。 「えっ!?」 「な、何……?」 驚いてからの二人の行動は早かった。紗夜香はイスから立ち上がって窓へと近づき、春菜はさっと布団の中に潜ってしまう。 紗夜香がカーテンの隙間から外をうかがうと、真正面に人の顔があった。 「っっっっっ!?」 さすがに驚いて声を詰まらせてしまう紗夜香だったが、すぐにそれが見知った顔であると気づき、安堵したように息を吐いた。 「春菜ちゃん。どうやら朝まで悩む必要、なくなったみたいだけど……悩みたい?」 カーテンをわずかに開けた状態で首を巡らして春菜を見れば、盛り上がった布団がなにやらもぞもぞと動いているところだった。 「入ってもらって構わない?」 誰が来たか、さすがに分からないはずはないだろう。しばらく沈黙していた布団だが、枕の辺りが頷くように動いた。 それを確認してから窓を開ける紗夜香。 「どうぞ」 場所を譲ると、外にいた進司は、足音を立てないように室内に足を踏み入れた。 「ありがと」 「お礼なら話と一緒に春菜ちゃんに言ったら? 春菜ちゃんが駄目だって言ったら私は何がなんでも入れないつもりだったわよ」 「じゃぁ、そうする」 大まじめな表情で淡々と言う紗夜香に、進司は苦笑を禁じ得なかった。紗夜香なら、本当にどんな手段を使っても阻止しただろうと簡単に予測がつくからだ。 だが、そんな苦笑もベッドの脇にくると途端に引っ込んだ。自分が何のために来たのか――それを思えば、笑みを浮かべてなどいられない。 「春菜ちゃん」 呼びかけに、相変わらず盛り上がったままの布団がぴくりと反応した。 「俺があいつらの口車に乗ったせいで、春菜ちゃんまで巻き込んじゃって……ほんとにごめん。その上……あんな……」 ぐっと拳を握り、進司は続ける。 「それだけじゃない。拷問されたって、脅されたって……目をそらし続けるべきだったのに、それもできなかった。軽蔑されて当然だよな。それなのに落ち込んでたら……正器に怒られて、もっと自分を見ろって説教された。そしたら、意外に自分のこと知らないんだなって驚いたよ。いや、知らないっていうよりは、分からないのかも。紗夜香ちゃんも、ほたるも、春菜ちゃんも、正器も……みんな大事な仲間なんだ。でも、感じ方は微妙に違う。特に、紗夜香ちゃんとほたると春菜ちゃんは。まだ俺にはどう違うのか分からないけど……特別だってことは確かなんだ。だから、俺は春菜ちゃんを傷つけたくない。もう傷つけておいて今更かもしれないけど、傷つけたくないんだ。だから……」 そこで言葉を切ると、進司は懐から一枚の封筒を取り出した。それを、そっと布団の脇に置く。 「俺の存在が春菜ちゃんを苦しめるなら、この退学届けと強制労働志願書を学長に提出してくれ」 布団が一層大きく動き、側で聞いていた紗夜香も目を丸くした。 退学届けだけならまだ話は分かる。だが、強制労働志願書まであるとなると、話はとたんに大きくなる。それは、軍属の最下級兵士として六十歳までを過ごすという誓約書だからだ。 無期懲役以上の刑罰を課せられた重犯罪者が、人としての幸せのない生とわずかな自由を過ごすために与えられる交換条件。それが、強制労働だ。 もちろん、伊達や酔狂で出せるものではない。冗談にしてもリスクが大きすぎる。 つまり、春菜を傷つけたこと、傷つけることにはそれだけの価値がある。そう、自分の一生を賭けるだけの価値が。 (……それってほとんど告白じゃないの?) 本当に気づいていないとしたら、骨の髄どころか原子の核まで唐変木に違いない。しかし、今までの物言いから考えると、進司は原子の核まで唐変木なのだろう。 もはやあきれを通り越して感心さえ覚えた紗夜香だったが、口を挟むのは差し控える。 気づいていなくても告白――としか紗夜香には思えない――なのだから、邪魔をするのは野暮というものだ。 「いきなりこんなこと言ってごめん。でも……俺、これしか思いつかなかったから。ほんと、ごめんね、夜遅くに」 早口に言い終わると、進司は脱兎の如く駆け出し、窓から外へと消えていた。春菜はもとより、紗夜香にも止める暇がなかった。 (それだけ!?) いくら恥ずかしいにしてももっと雰囲気というものを考えたらどうか。そうツッコミたかったが、当の本人はもう窓の外だ。 もう、ここまで来るとどう反応していいかさえ困ってしまう。 迷った挙げ句、紗夜香は顔を片手で覆ってため息をついた。これで少しでも呆れが遠のいてくれればいい、そんな気持ちで。 「進司君……」 そんな紗夜香など視界にすら入っていないのか。いつの間にか体を起こしていた春菜が、封筒を手に、窓へ向かって小さくつぶやいた。 * * * まるでハートマークが無秩序に駆け回っているようだ、と言ったのは誰だったか。 それぞれ意趣を凝らして綺麗にラッピングされた物体が、自分の机に数個ばかり置かれているのを見て、紗夜香は我が目を疑った。 確かにクラスメートや部活の生徒とはそれなりに仲良くしているが……まさか同性にチョコをもらうことになるとは、思ってもみなかったのだ。 (……異性にチョコもらうのもそれはそれで不気味だけど) しかし、見てみればそこらかしこで同性によるチョコの交換が行われている。特別な意味もなくそういうことをするのが今の風習なのだろうか。 とは言え、さっき廊下ですれ違ったように、おもしろ半分で追いかけ回されてチョコを渡されるよりかはマシか。 (『聖バレンタインの魔法追走』なんて誰が考え出したんだか……) 今も敷地のどこかを必死こいて最上級生の林 和広(はやし かずひろ)は逃げ回っていることだろう。一部では、誰が和広にチョコを食べさせるか賭け事にもなっているというが……まぁ、自分には関係のないことだろう。 紗夜香がそんなことで悩んでいると、教室の窓ががらりと開いた。 「あ、紗夜香。おはよー」 「あ、おはよう」 顔を見せたのは、春菜だ。手に紙袋を持ったその姿はいつも通り。昨日はまだふさぎ込んでいて欠席していたが、今日は持ち直したらしい。 一人で考えるのも必要だろうと昨日は顔を見に行ってなかっただけに、ようやく一心地というところだ。 と、紗夜香の目の前に、ラッピングされた手の平大の物体が差し出された。 「はい、これ」 「……チョコ?」 「そ。一応手作りだよ。作り始めたの夜になってからだから、あんまいい出来じゃないんだけど……。迷惑かけちゃったお礼にね」 「別によかったのに」 「気持ちだって。なんかしたかったの!」 「分かった。ありがとう」 大したことはしてないと思っていても、照れ笑いまで浮かべて力説されてはさすがに受け取らないわけにはいかない。紗夜香は、ありがたく受け取ることにした。 と、紗夜香が受け取ったのを見るやいなや、きょろきょろと教室の中を見渡す春菜。 「あれ? ほたるは?」 「部活の飢えてる野郎共に施しに行くって」 「……まだやる気なんだ。しかも朝っぱらから」 「チョコ配るのは毎年の恒例だから」 「ま、そうだけど。いいや、後でわたそーっと。じゃ、お兄ちゃん達んとこ行ってくるから」 「がんばってね」 「あはは、ありがと」 笑うと、元気に駆け出していく。 (……空元気でもないよりはマシ。少しでも元気が出てきたら御の字かな) 多少は空元気ながらも明るく振る舞えるようになった春菜を見て、紗夜香はようやく一段落したんだ、と改めて実感した。 黄昏時。 春菜は、寮とは真逆にある第三校舎の裏庭で一人、ぽつんと花壇の縁に腰掛けていた。 もう、この裏庭に来てから三時間は経っただろうか。何度目になるか分からないため息をつき、なんとはなしに空を見上げる。 「やっぱり失敗だったかなぁ〜」 これもまた何度目の台詞だったか。春菜はもう一度ため息をつく。 「普通、チョコ渡してその日の放課後に呼び出しなんかしないもんなぁ……」 ラブレターをこっそり入れておく、という話ならごまんとあるのだが。 さすがに「放課後、第三校舎の裏庭に来てください」という色気も何もない文章だけのカードを添えるのは外れだったかもしれない。 ましてや人気のある進司なら、カードの添えられたチョコなど両手で数えるくらいもらったことだろう。 「うぅ……嫉妬するべきか悔やむべきか……」 ついには頭を抱え込んでしまう春菜だった。 いい加減諦めようか、と心のどこかで思い始めた頃。裏庭いっぱいに、声が響いた。 「春菜ちゃん!」 「ふえ?」 「ごめん!」 現れたのは、進司だった。私服に手ぶら。よほど急いできたのか、完全に息が上がっている。 「お、俺、ぜぇ、気づか、ぜぇ、なくて、その……」 「あああ、お、落ち着いてからでいいから」 「う、うん……」 しばらくは荒い呼吸を繰り返していた進司も、なんとか息を整えると、膝から手を離した。 「ほんとにごめん。帰ってからようやく気づいて……」 「ううん、ううん、いいよっ。もう少し工夫するべきだったなって自分でも思ってたところだから!」 わたわたと手をばたつかせている春菜。顔が赤いのは夕日に当てられているからだけではないだろう。 「でも、ごめん。それから、ありがとう」 進司は素直に頭を下げた。待たせてしまったこと、待っていてくれたこと、その両方に。それきり、どちらも言葉が続かない。 俯いてしまった春菜が、いい加減沈黙に耐えかね、意を決したように顔をあげた。 「えっと……進司君」 「な、なに……?」 鬼気迫る様子にか、それとも緊張しているのか。進司の声も強ばっている。 春菜が、そっとポケットから封筒を取り出した。 「これ……返すね」 「……」 「そりゃ、全然傷ついてないわけじゃないよ? ショックはショックだったし」 「だったら……」 「ううん。どんなに仲が良くっても、傷つけないって無理だと思うんだ。傷つけない間柄って、なんにもないようで嫌だもん。肝心なのは、傷つけたことを分かってくれるかどうか。進司君は分かってくれたから……だから、いいんだ」 夕日に照らされた屈託のない笑顔には、ウソではないと信じさせるだけのものがあった。 進司は小さく頷くと、差し出された封筒を受け取り……その場で二つに破いた。 「で、ね……その、伝えたいことがもう一つある、んだけど……」 「え?」 屈託のない笑顔はどこへやら。夕日の中でも分かるほど顔を真っ赤に染めた春菜が見上げると、進司は首を傾げた。 「その……えっと……もう、気づいてるかもしれないけど……」 「うん……?」 「わ、わたし……」 震える唇で春菜が言葉を紡ごうとした刹那。 「お前ら、何やってんだどけっ!!」 この場にそぐわない、やけにせっぱ詰まった声が上の方から降ってきた。 「え……?」 そして、その声に反応したのは春菜達……ではなかった。 「うわわ、和広さんっ!?」 「とっととどけぇぇぇぇ!!」 近くの茂みに墜落した何か。それに押し出されるように転がり出てきた……ほたる、紗夜香、正器。 「逃がしませんよせーんーぱーいーっ」 「しつっこいんだよお前!」 「当たり前ですー。一週間のランチがかかってるんですからっ!」 茂みから抜け出して更に逃げる和広を追って墜落してきたもう一つの影。茂みからゆらりと立ち上がったと思うと、次の瞬間には風のごとき速さで和広を追い始めた。 台風一過。 その場にいた全員の脳裏に浮かんだのはその言葉だった。 呆然とする一同だったが、いつの間にか茂みの近くで座り込んでいた三人がそろりそろりとその場を離れようとしていた。 「あんたたち!!」 「逃げろ!」 「待ちなさい!」 正器の号令一過、脱兎の如く駆け出した三人を追おうとする春菜だったが、 「あ、春菜ちゃん」 と進司に呼び止められてしまった。 「伝えたいことってなんだったの?」 その上、こんなことを言ってくるのだから、春菜の中で何かがキレても仕方がないことだろう。 「これからも仲良くねってことっ!」 怒声を叩きつけるように言い放つと、 「待ちなさーーーーーーーーい」 ナチュラルフルエンハンスを起動し、風となって三人を追いかけるのだった。 |