祭りの後と言えば、ぴったりかもしれない。盛大に行われた初詣の余韻も一つとして残っておらず、いつもの荘厳で身の引き締まるような、ある種の涼しい空気が満ちている。

 まさしく、入れば誰もが背筋を伸ばしてしまうような雰囲気なのだが……

「……なんでまたこんな朝っぱらから神社なんかにいるんだろ、わたしたち」

 寝ぼけ眼をこする庫裡 春菜(くり はるな)の背筋は、これぞ見本と言わんばかりに猫だった。

 早朝四時。まだ芯に響く寒さを漂わす空気が支配する時間だ。縁もゆかりもない神社の境内に立っている自分の行動が、なんだか正気の沙汰とは思えなくなってしまう。……いや、決して自分は常軌を逸しているわけではない。

「ほたるが初詣するって言ったから」

 そう、常軌を逸しているのは、諸悪の根元、倉品 ほたる(くらしな ほたる)だ。

 自分はそれにつき合わされているだけであり、あくまで冷気で思考回路の回転が鈍っているだけだ。

 ……決して、山路 進司(やまじ しんじ)との初詣でドキドキ、な展開につられたわけではない。

「うん、そうそう……わたしはおかしくない……」

「……春菜ちゃん? 大丈夫?」

「はっ!?」

 気づけば、七海 紗夜香(ななみ さやか)が目の前でぱたぱたと手を振っていた。

 紗夜香の様子はいつもと変わらない。自分と同じ時間に起きて同じ状況にいるにも関わらず、小憎たらしいほどいつもの調子だ。

(紗夜香こそ、完全につき合わされてるんだから、もう少しげんなりとかしててくれればいいのに)

 自分の思考で墓穴を掘っていることに気づかない春菜は、眠気覚ましにとばかりに紗夜香との会話に集中することにした。

「ってか、その肝心のほたるはどうしたの?」

 諸悪の根元たる関西弁を、今日はまだ聞いていなかった。よくよく思い起こしてみれば、寮を出るときからいなかったような気がする。

「さぁ……? 先に行っててくれって」

「ふーん。で、ほたるはいいとしても、進司くんとおにいはんふぁ?」

 春菜は、ほんとにどうでもよさそうに小さなあくびをする。

「十分後を出発にさせたらしいわよ」

「……はぁ?」

 間抜けな声は、あくびのままの口から漏れていた。

 疑問を満面に出した春菜の顔を見て、紗夜香はぽんと手を打った。

「ほたるが、私達の出発よりも十分後を出発時間にさせたらしいわよ」

「いや、それは分かるから。分からないのはほたるの考えだって……」

 冷たい目で睨む春菜だが、紗夜香はその程度ではびくともしなかった。それどころか、逆に意地の悪い笑みを浮かべる。

「どうせデートの形を取りたかったんだと思うけど。春菜ちゃんだってそっちの方がいいでしょ?」

「で、ででで、デートって……!?」

 紗夜香の意図通りにわたわたと落ち着きを無くす春菜は、今にも湯気を噴きそうなくらいに真っ赤になっていた。

(……ほんと、からかいがいがあるなぁ。進司くんとつきあい始めたらおもしろいことになりそ)

 あうあうと意味不明な言葉をもらし始めた春菜を見ていると、本当にこれから先も退屈だけはしそうにない。

(そういえば、ほたるもこっち関係に免疫ってなかったっけ。たまにはからかわれる方に回すのもおもしろいかなぁ。弄めって連鎖するし……一粒で二度おいしいことになるかも)

 おもしろい。想像するだけでおもしろい。思わず小さな笑いが漏れてしまう。

「紗夜香……。なんだか楽しそうな顔してるのはいいんだけどさ、すっごくよからぬこと企んでない?」

「企むってほど具体的じゃないけど……でも、悪いようにはしないから」

 女神の微笑で返されると、なぜか説得力がある……ような気がしてくる。

「ってやっぱりなんか企む気なんじゃん!?」

 危うく納得してしまうところだった。そんな反応を見た紗夜香が、吹き出すように笑い出す。

「な、なんで笑うのよ!」

「ご、ごめん。楽しいなぁって思って」

「人をからかうのが? 弄めるのが?」

 珍しく強気に詰め寄ってくる春菜の表情は紅潮している。どうやら、今回はちょっとお冠のようである。

 ちょっとやりすぎたかな? と思って、表情を少し引き締める。

「それもあるけど……そんなことをできる場所が、かな。なんだか自然な居場所って気がして、ね」

「そ、そんなの今までだってそうじゃない」

 半分冗談だったのに、水を打ったようにまじめになるもんだから、春菜は戸惑いを隠せない。

 そんな春菜を見ると、紗夜香は穏やかな微笑を刻んで続ける。

「……そうなんだけどね、実感できたっていうか」

「なんか……あったの?」

 妙に重い言葉を重ねる紗夜香の様子がいつもと違うことに、春菜はようやく気づいた。

「んーこの前帰った時に聞かされたんだけど、実家の方が今、ちょっと傾きかけてるとかで大変なことになってて。ますます居場所が小さくなってる上に色々とうるさいのよ。すぐ上の姉さんなんて、政略結婚同然に嫁がされるらしいし」

「け、結婚って……じゃぁ、あんたもやばいんじゃ!?」

「あ、私はまだ大丈夫。学園にいるのが幸いしてるらしくて……とりあえず今のところ、卒業までは」

 青ざめる春菜を安心させようと明るく言うが……その程度でだまされるほど、春菜も楽観的ではなかった。

「どっちにせよ危ないことにかわりはないってことじゃない!? ど、どうにからないの?」

「少なくとも、私みたいな子供が一人あがいてどうにかなる問題じゃないかな。春菜ちゃんなら分からない? 家……というより、家柄、かな……集合体って強いのよ。こればっかりは仕方がないよ」

「仕方がないってあんた……だって、それって道具と同じってことでしょ!? どうして平然としてられんのよっ!?」

 我が事のように顔を真っ赤にして怒る春菜を見ていると、その心が染みわたるように伝わってくる。

(諦めなくちゃならない時っていうのも、あるんだけどな。……もし逆らうことを覚えたら、私一人の問題じゃなくなっちゃうから)

 春菜の心に応えたい気持ちはある。春菜の優しさは、本当に嬉しいのだ。けれど……優しさとは、たき火に似ている。気持ちの籠もった言葉は、燃え落ちるたき火に薪をくべる結果にしかならないだろう。

 だから、紗夜香は、ふわりと春菜を抱き寄せた。

「へ?」

「ありがと」

 一言だけを口に乗せると、紗夜香はそっと春菜を離した。どう反応するべきか分からない春菜は、目を白黒させたまま硬直している。

「ちょっと冷えてきたね。私、飲み物買ってくる」

 自分でやって照れくさくなったのか、紗夜香は顔を逸らすようにきびすを返して小走りに階段を駆け下りていった。



 階段を三分の二ほど駆け下りたところで、紗夜香は足を緩めて大きく息を吐いた。

「なんだか私らしくなかったねぇ」

 ゆっくりと階段を下りる紗夜香。翠泉と緑玉に話しかけるその表情は、言葉の割に微笑を崩していない。

「え? 無理はするな? 別にしてるつもりはないけど……うん、春菜ちゃんとかほたるとか、正器くんも進司くんも……今は友達がいるから大丈夫」

 後ろ手を組んで歩く紗夜香は、いつもと違ってどことなく楽しげな雰囲気が漂っている。やはり、どこかで肩肘を張っていた部分があったのかもしれない。

「ん? どうしたの、緑? え? 助けを求めてる?」

 瞬間、紗夜香は躊躇も見せず階段を逸れ、脇の森へと飛び込んでいた。

 白い息を背後にやりながら、木々を避けて緑玉が指示する方へと足を繰る。

 二分ほど走ってたどり着いたのは、今までとほとんど景色の変わらない森の中。一本の木の下だった。

「この上……?」

 自身の何十倍、という背の高い木を見上げると、上の方に何か茶色っぽいものがいる。どうやら動物のようで、細い枝の先にしがみつくようにもたれかかっている様子だ。

「あれ……かぁ」

 枝は、強風でも吹こうものならぽっきりと簡単に折れそうな、いい具合にしなっている。おまけに動物自身、あまり体力が保たなそうだった。

「さて、どうしようか……?」

 いくつか、瞬間的に頭に浮かんだ選択肢はあったが……どれもが少々無理な手段と言わざるを得なかった。

「一番安全なのは……うん、これかな。緑、上まで行って、一緒に落ちてきてくれる?」

 頭の上に声をかけると、もぞりとした感触の後、頭がいくらか軽くなった。

「よろしくね」

 足下に降りた緑玉は、前足を了解という風に持ち上げてみせてから、とてとてという感じで地面を駆け、そのまま木をちょろちょろと登り始めた。
 
 意外に速く登っていく様を目で追っていると、すぐにその姿が小さくなる。その間に、万が一に備えて落下の衝撃を和らげるために魔法の準備をしておく。

 緑玉が移ったらしく枝のしなりが大きくなるが、まだ折れるほどではないようだ。緑玉は、そこでいったん足を止めた。ここから説明……というか説得に入る。

(暴れる様子は……ないみたい)

 ここで失敗すると、恐怖心を与えたりして即落下、という事態になりかねないのだが……緑玉を行かせたことが幸いしたのか、危惧した事態にはならなかったようである。

「ぴー!」

 しばらくして、緑玉が声を張り上げてきた。説得完了の合図だ。

「こっちはいつでもいいよー!」

 返事を返すと、緑玉が枝先の方へと慎重に歩き始めた。茶色い動物のすぐ側まで行くと、いったん足を止める。

 直後、上に乗っている二匹とともに、枝がぐらりと傾いた。枝から足が離れ、落下してくる二匹。

 半分くらいまで落下したところで、二匹の落下速度ががくりと緩やかになり、まるで舞い降りるようになった。緑玉が、落下速度緩和の魔法を使ったのだ。

 紗夜香はそれを確認すると落下地点に立ち、両手を開いた。十数秒後、腕の中に二匹がすっぽりと収まった。

「緑、お疲れさま。君ももう大丈夫よ」

 そういって緑を頭の上に、茶色い動物を地面に降ろす。

子犬とリスを足して二で割ったような、あまり見かけない種類の動物……いや、恐らく魔物だろう。魔物に詳しいと多少の自負を持っている紗夜香も知らないが、ただの動物でないことだけは確かだ。……まぁ、紗夜香にとってはだからどうした、でしかないが。

 小首を傾げて見上げてくる魔物は、どこかに行く素振りを見せない。紗夜香はそっとしゃがみ込み、その頭をそっとなでた。

「遊びに夢中になって降りられなくなったのかな? 今度からは気をつけないとダメよ?」

 心地よさそうに目を細めている魔物に優しく語りかける。

 魔物は小さく頷くが……分かったのか分からないのか、心地よさそうにしているだけだった。

 思わず苦笑が漏れる。魔物とはいえ、こういう大人しい気質のものもいれば、翠泉のように忠誠心の深い魔物もいる。

 人と同じで千差万別なのに、大部分の人はそれを理解しようとしない。ただ言葉が通じないという一点のみで。

 しかし、紗夜香に言わせれば、言葉で表面的な理解を得たつもりになっている人の方が、よっぽど理解しがたい存在だった。

 子供を道具として使おうとする親がいる。互いを蹴落とす存在としてしか見ていない兄弟姉妹、親戚がいる。

 血がつながっていても全幅の信頼を寄せることなどできず……ましてや他人など、どうして信用できようか。

 紗夜香の育った場所は、そんなところだった。

 紗夜香にも、子供の頃に決められた婚約者がいる。もちろん、政略結婚だ。初恋というものも経験したが……婚約者が決まった直後、引き離された。

 それからは外で遊ぶこともままならず、様々な稽古事に家庭教師、嫁入り修行……自由など何一つない生活の中に全ての感情が埋もれていった。

 反論一つさえ許さぬ、徹底した拘束が日常の世界。

 そんな中で唯一得た……いや、勝ち取った自由が、翠泉と緑玉と一緒にいるということだった。

(よくやったなぁ……)

 今思い返しても、無茶をしたと思う。たぶん度重なるストレスをひたすらため込んでいたため、全てに嫌気がさしていたのだろう。たかだか十歳の子供が自殺を盾に大人に脅しをかけるなど、並大抵のことではない。

 思えば、そのころから、本格的に魔物と意志を通じさせることができるのだと実感したのだろう。

 おかげで周囲からは煙たがられることになったが……それを嘆くような心は紗夜香には残っていなかった。

 とはいえ、味方が皆無だったわけではない。たまに遊びに来る鴻 美佳(おおとり みか)は同じような体質の持ち主だった。

 かろうじて人間味が残っていたのは、美佳の存在があってこそだろう。美佳が最後の一線を支えてくれなかったら、学園中等部でほたるに出会っても、心を取り戻して親友になることは不可能だったかもしれない。

 二人には、本当に感謝してもしきれない。道具であることから抜け出すことは、ちっぽけな自分ではできないけれど……少なくとも、心だけはきちんと持っていたい、紗夜香は最近、そう思うようになっていた。

 どうしても無理なことはある。だから、自分のできることで感謝の気持ちを伝えなければならない、そう思うから。

「……って、なんで私は人生を振り返ってるんだろう」

 唐突に気づき、思わず自分に呆れてしまった。

 全く、新年にやることではない。自分で思ってた以上に感傷的になっていたのだろうか。

「ま、いっか」
 
 無意識にも魔物をなでていた手を止め、立ち上がる。魔物のきょとんとした目を見ながら、穏やかな笑顔を向けた。

「さ、君もお帰り」

「ふむ、わしは礼をする機会ももらえんのかの?」

「えっ!?」

 なんの前触れもなく、老人の声が響いてきて、紗夜香は反射的に警戒の態勢を取った。

 注意深く見渡すが……辺りに人の気配はない。

(魔法……?)

 ますます警戒を強める紗夜香に、老人の声は申し訳なさそうな色になった。

「ああ、すまんすまん。驚かせてしまったかの。なに、別に危害を加えようなどとは思っちゃおらんよ。そいつの主じゃ、ちょいと礼をしたいと思うてのぉ。これ、麗蘭(れいらん)、案内してきなさい」

 老人の言葉が終わると、魔物が鼻先で紗夜香の足をつついてきた。

 数度つついたと思うと軽快に奥の方へと駆けていき、立ち止まって物欲しそうな目で紗夜香を見てきた。

「……行こう」

 訝しみながらも、紗夜香は翠泉を促して足を進めた。



 魔物――麗蘭の先導でしばらく進んだ紗夜香達は、巨木が立つ空間へと足を踏み入れていた。

 大人十人が腕を回しても届きそうもない巨大な幹を持っており、根だけでも大人一抱えで済むかどうか、という大きさの木が鎮座している。

 その麓には、古ぼけた社が建っていた。何十年と風雨に晒されて苔むした社だが、なぜか崩れそうな気配はない。

 その横には、杖を持った、人の良さそうな髭の老人が満面の笑みで佇んでいた。麗蘭が一目散に駆けて行くところを見ると、その老人が主、ということだろう。

 ゆっくりと紗夜香が近づいてくるのを、まるで見守るように見つめていた老人は、十メートルほどの距離をもって紗夜香が足を止めたのを見計らって口を開いた。

「うちの麗蘭が世話になったようだのう。まだ子供だからか……好奇心旺盛なのはいいが、少々無理をするところがあってな。いや、助かった。礼を言わせてくれ」

 にこにことした笑みのまま、老人は腰を折った。

「あ、いえ。別に……大したことはしてませんから」

「いやいや。お主が気づいてくれなんだら、こやつがどうなっていたやら。全く、勝手に出歩くなと言うておろうに、わしが寝ているときに限って危険なことをするのだから困ったもんじゃ」

 呆れたように言う老人だが、紗夜香はその表情に慈しみが溢れているのを見逃さなかった。

 孫を見守る祖父、とでもいうのだろうか。紗夜香にとっては非常に好感の持てる関係を築いているようだ。

「怪我がなくて何よりでした。これからは、あまり目を離さないようにしてあげてください」

「そうすることにしよう。ああ、ところで、お主に礼をしたいのだが……何か望みはあるかな?」

「……は?」

 表情を崩さずに問われ、紗夜香は首を傾げた。老人は、企み事を含んだ笑みを浮かべる。

「役目を退いたとはいえ、わしはこれでも神の位にあるものじゃ。何でも……とはいかんが、望みを叶えることができるのでな」

「……」

「そんな疑心に満ちた目を向けんでも……。まぁ、いきなりこんなことを言われて信じるわけがないとは思っとったが……悲しいもんじゃな」

「……はぁ」

 本当に悲しそうに顔を伏せられても、どう反応すればいいのだろうか。紗夜香も曖昧な態度をとるしかできない。

「まぁ、わしがほら吹きジジイでも減るもんでもないじゃろう。何か望みを言ってはみんか?」

 一転して笑顔を見せる老人。紗夜香は若干、困惑の色を覗かせ……別に損をするものでもないか、と、とりあえず考えてみることにした。

「ほれ、何かあるじゃろう」

 なぜか楽しそうに促してくる老人だが……紗夜香はますます困惑の色を強めるだけだ。

(望み……願い……)

 ない、わけではない。ただ、願うのにためらってしまう類のものだった。

 富、権力、名誉、力……そんなものに興味はない。ほたるなどには呆れられるが、色恋などにも心惹かれたりはしない。

 欲しいのは、自由。望んだ相手と共にいられる自由。ただそれだけが欲しかった。

(ひょっとしたら……)

 叶うかもしれない。この老人の雰囲気には、不思議とそう思わせる何かがあった。

 しかし、ためらいが消えない。自分が自由を得る――それは、自分を取り巻く環境にほころびを与えることになる。自分が与えるほころびなど、全体から見ればごくごく小さなものだろう。だが、それとは気づかぬ内に全体へと広がっていくのだ。

 そう、その結果が、今実家が陥っている危機に違いない。そこに自分のほころびが入れば、やがて家のほころびへと広がっていき、国へのほころびへとつながっていく。紗夜香の家は、小さな波紋を大波に広げるだけの力を持っているのだから。

 つまるところ、紗夜香の自由とは、自分だけが立てる場所を作ることで初めて生まれるのだ。

 危うく開きかけた口を、紗夜香はつぐんだ。

 願えるわけなどないのだ。自由を得ても、一人になってしまっては意味がないのだから。

「……ありません」

 紗夜香にできたのは、心の内を悟らせないように否定を返すことだけだった。

「……何も?」

「ええ」

「では……先ほど開きかけた口は、何を語ろうとしておったのかの?」

「……!」

 開きかけたと言っても、唇はほとんど動いてないはずだ。それを見破られた……? 紗夜香の心に動揺が走る。

 「お主は、心閉ざすことを美徳としておるのか? それにしてはずいぶんと弱々しい決意じゃの。そんなことでは、全てを傷つける……先に待つのは喪失だけじゃ」

 人の良い笑みを……老人はつり上げる。

「隠し通すこともできず、言うこともできず……それで何を得ようとする? まさか周りが気づいてくれることを期待しているのか?」

「そんなこと……ありません」

 絞り出すように答える紗夜香だが、その瞳には紛う事なき焦燥の光が宿っている。

 自分でも知らない自分を紐解かれていく。老人の言葉には、そんな力が宿っているようだった。

「隠せぬなら、言う覚悟を。言わぬなら、隠す仮面を。全てを懸けて願うか、全てを失っても守り通すか。お主はどちらを選ぶ?」

「全てを……失う……?」

 突如、体の芯が冷えた。願わぬことが、失うことになるのか。

 恐怖に揺れながら視線で問う紗夜香に、老人はゆっくりと頷いてみせた。

「自分の願い一つ言えぬ者に、誰が寄り添う? 願い一つ言ってもらえぬ……それは、本心をうち明けてはもらえぬ、つまり信頼に足りぬと明言されるのと同じこと。おぬしは、そんな者に寄り添うか?」


――ガン


 頭の芯を殴られたように、一瞬、前の前が暗くなった。

 その間に、ほたる、春菜、進司、正器……四人の顔が、浮かんでは消えた。

 まるで今、この場で失ったような錯覚さえ覚えるほど、鮮明に写り、一瞬で消えた。

(嫌……!)

 胸をよぎったのは、初恋の時と同じ気持ちだった。『モノ』に堕ちる瞬間――彼女たちを失えば、また、自分は昔と同じになってしまう。

 いや、『モノ』になることそのものは、別に怖くない。彼女たちを救うためなら、喜んで『モノ』になれるはずだ。

 怖いのは、彼女たちを失うときに現れるであろう、悔恨や自責、惨苦――彼女たちが味わうであろう、ありとあらゆる苦痛だ。

 彼女たちが大切であるからこそ、言えるわけがなかった。

 言えば叶うだろうと、老人が神と呼べる存在であると、自分が思ったからこそ。

「でも……」

 だから、ぐっとこらえた。老人の、心を見通すような話術に惹き込まれてはならないのだ。

 春菜にも言ったとおり、自分の我侭は、実家への迷惑となる。……いや、娘を道具としか思っていないような実家の人間などはもう、半分どうでもいい。

 だが、実家の家柄は、この国の中枢にも影響を与える。これ以上実家が傾けば、国も傾くかもしれない。自分の大切な者たちが暮らす、この国が。

 だから……

「でも、なんじゃ?」

「言え……ません」

 青ざめた顔で、紗夜香は硬い声音で首を振った。頑固な紗夜香に対して呆れたように、老人は肩をすくめる。

「なかなかに頑固じゃの。じゃが、言えない理由とはなんじゃ? それくらいは聞かせてくれても良かろう?」

 穏やかな笑みを浮かべながらの老人の問い。包み込むような声音は、あるいはからみついていたのかもしれない。

 紗夜香は、なぜかほとんど何も考えられずに口を開いていた。

「言えば……我侭を通せば、みんなに迷惑がかかるから。みんなが暮らす、この国が……よくないことになるかもしれないから……」

 俯き、紗夜香はつぶやくように言う。老人は、やや上の方を仰いで長いため息をついた。

「なるほどのぅ。高い地位の生まれ故の悩みか。じゃが……」

 正面に戻したとき、老人の表情から穏やかなものは失せていた。

「何様のつもり? とでも、お前さんの友達なら言うかの」

「――!」

 衝撃も何もない。あまりのショックに、全てが凍り付いてしまった。老人は、それを見越してか、すぐには言葉をつながない。

 思い出したように紗夜香が呼吸を始め、老人はそれから言葉をつないだ。

「たかが小娘一人が幸福を求めることで揺れほど、この国は弱くないわい。確かに、そういう国もあろう。だが、この国は、民全ての集合体として生きておる。お主の我侭一つで、その生き物を殺せるとでも思っておるのか? 民全ての命運を左右できるとでもいうのか? 全く、何様のつもりじゃ。戯れ言も大概にするんじゃの」

「あ……あぁ」

 何を言おうとしても、言葉にならなかった。紗夜香にとって、老人の言葉は、あまりに重すぎた。

 実家の富と権力の恩恵を受ける内、知らず知らずに、実家の愚かな人間と同じように思い上がっていたのかもしれない。

 自分も、特別な人間だと。

 紗夜香は、ぎゅっと唇を噛んだ。

 家族の愚かさに気づき、その愚かさを軽蔑しながら……たとえ知らずであろうと、同じ過ちを犯していたとなれば、それは誰よりも救いようのない愚か者ではないだろうか。

 紗夜香の反応を見た老人が、厳しい顔を引っ込めて柔和に笑う。

「己の過ちに気づいたようじゃの。じゃが、悲観することはない。愚か者とは、最後まで過ちに気づかぬ者、気づかぬ振りをする者を指す。お主は、愚か者ではない」

 老人の言葉が、とけ込むように心の中へ入ってくる。愚か者ではない――その言葉が、まるで鍵のように心のどこかにはまった。

「では、改めて聞こう。何か……願いはあるかな?」

 穏やかな声音で、老人が尋ねてくる。紗夜香は、目をつぶって自分に問いかけた。

 本当に欲しいものは何か――と。

(自由。自由が欲しい。でも……自由ってなんだろう)

 わき上がってくる疑問。自分の後ろには、いくら目を凝らしても不自由しかなかった。与えられた中での選択肢は確かにあったが……それは自由ではない。

(与えられたもの……それは、たとえ自由であっても自由じゃない……)

 紗夜香は更に自問する。自由とはなんだろうか、と。

 微動だにせぬ紗夜香を心配したのか、翠泉が鼻先でつついてきた。大丈夫、という代わりに、そっと頭をなでてやる。

「あ……」

 唐突に気づいて、紗夜香は目を開いた。

(こんな……簡単なことだったんだ)

 自由とは、与えられるものではなく、得るもの。たとえ、戦ってでも。そうして得たものが、こんなにも近くにあったのを、紗夜香はいつの間にか忘れていた。

「ほっほ、決まったようじゃの」

 紗夜香の顔に迷いがなくなったのを見た老人が、嬉しそうに声を跳ね上げた。

「はい」

 紗夜香は力強く頷き、一つ息を吸って告げた。

「いりません」

「……は?」

「自分が寄り添いたいと思った人と寄り添う自由……それが私の願いです。でも……それは、人から与えられるものじゃない。自由は、自分で得なければ自由じゃないから。だから、いりません」

 はっきりと、これ以上なく強い意志を込めて、紗夜香は告げた。もう迷いはない。紗夜香の目は、前しか見ていない。

「む……ぅ」

 予想違いの答えを返され、渋面を作ってうなる老人。願いを告げられても、かなえることを拒絶されてしまえば、老人には手も足も出ない。

「ほ、他にはないか? な、何かあるじゃろう。ほら、きれいな服が欲しいとか、飾りものが欲しいとか。ああ、ほら、意中の相手がいたりはしないか?」

 しかし、それでは気が済まないのか、半ばムキになって必死に紗夜香から望みを聞き出そうとし始めた。

(……なんか、孫の気を引こうとしているおじいちゃんみたい)

 そう思うと少しかわいそうな気もするが……だからと言って、嘘をつくのは逆に傷つけるだけに思える。……とはいえ、良心が痛むのも事実だ。

 仕方なく、紗夜香は願いとも少し違うが、一つだけ言ってみることにした。

「……じゃぁ、無病息災で」

「よ、欲のない娘じゃのぅ……。本当にそれでいいのか?」

「ええ。富とか権力の恩恵はさんざん受けてましたし、名誉とか格式は別にいらないですし。ああ、力も強くなりたいとは別に思ってないから必要ないですね。残念ながら意中の相手もいないので恋愛も無理ですし……。そうなると無病息災くらいしかないです」

 いいのか? の部分に理由を求められている気がして、紗夜香はすらすらと真顔で言ってのける。

「そうか……。しかし、無病息災か。実はそれが一番難しいことなんじゃがのぉ。なにせ、因果律を曲げねばならん。わしみたいな中堅どころでは全ての事象から守る加護を与えるのは無理なんじゃ」

 申し訳なさそうに言う老人だが、紗夜香は別段気にした風でもない。

「あー気を落とさないでください。体は丈夫ですから、大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なのかよく分からないが、とりあえず慰める紗夜香。だが、老人はそれをよしとはしないようだった。

「いやいや、心配無用。さすがに無病息災、とまではいかんが……今年一年の運気を上昇させよう。これで、多少の不運は吹き飛ばせる。大怪我も大病も軽いもので済むぞぃ」

「それって、要するに悪運上昇?」

「……まぁ、そうとも言うな」

 紗夜香に直球で指摘され、老人はちょっと恥ずかしそうに顔を逸らした。

「お主、名前はなんと言う?」

「七海 紗夜香です」

「うむ。では、七海 紗夜香よ。汝に幸あらんことを」

 木の根を、とんと杖で叩くと、ざわりと木がざわめいた。

 まるで雨露が振り落とされるように、紗夜香の頭上から光の粒が振ってきた。

「わぁ……」

 金や銀に輝く光の粒は、まるで蛍が舞うように紗夜香の周囲を踊り、溶けるように地面に消えていく。光の粒は春の日差しのように温かく、それらが集まっている空間は、優しい空気に包まれているようだ。

 染みわたるように全身が優しい空気を浴びると、始まったときと同じように唐突に光の粒は消えていった。

 運気が上昇うんぬんはともかく、年の初め――というには少し過ぎているが――からなんだか幸せな気分になれた。

「ありがとうござ……あれ?」

 老人にお礼を言おうと社の横へ目を向けてみると、いつの間にか老人は姿を消していた。

「……。ありがとうございました」

 社へ向けて腰を折る紗夜香。

『おやすいご用じゃ。来年も、ついででいいからこっちにも来てくれんかの』

 反響するように老人の声が聞こえてくる。紗夜香は、社へ向けて笑顔を向ける。

「ええ、きっと来ます」

 もう一度軽く頭を下げ、紗夜香はきびすを返した。



 紗夜香が社を後にして、当初の予定通り飲み物を買って境内に戻ると。怒り顔二つにいらだち顔一つ、安堵の顔一つが待ちかまえていた。

「もーいったいどこまで行ってたのよ!」

 真っ先に文句をぶつけてきたのは、春菜だ。顔が赤いのは待ちぼうけをくらって寒いから、というわけではないだろう。

「せや! 人が急いで来てみればまだおらんやて? どーゆーつもりやねん!」

 追随するのは、振り袖姿のほたるだ。……そういえば、しきりに着方を教えさせられていたが、まさかこの日のために自力で着られるようにしていたのだろうか。

「まぁまぁ、無事だったんだしいいだろ?」

「そうだな。学校もあるんだ。さっさと遅い初詣を終わらせて戻らないと、新学期早々に遅刻くらうぞ」

 たしなめる役に回った進司についたのは、庫裡 正器(くり まさき)だ。こちらは寝不足のせいか、目つきが目に見えて悪くなっている。

 ただ……誰もが心配してくれていたのだけは、確かなようだ。はっきりとそれが分かった。

 自分にとって、信頼に足る相手――それが、この四人なのだろう。

「ん、ごめんね。早くお参り、しようか」

 だから、素直に気持ちを前に出すことができた。滲ませるだけではない、心をさらけ出すことが……このときだけは、本当に素直にできたのだった。

 そんな紗夜香の変化に気づいたか気づかなかったか。ほたるは、とっとと正器を引っ張って歩き始めた。続く進司、春菜、紗夜香。

 だが、ふと春菜が振り返った。

「……紗夜香? なんかあったの?」

 後ろ歩きになりながら、怪訝そうな表情で春菜が尋ねてくる。

「え?」

「いや、さっきと違ってずいぶんと表情が軽いような……?」

 言ってる春菜自身、いまいち実感がないのか、半分首を傾げている。

「かもね。心が軽いからかな」

「……?」

 なんとも言い難い奇妙な表情を作る春菜だったが、反対に紗夜香の表情は……今までの重い微笑ではなく、心の底から穏やかさが滲んでくるような微笑だった。


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