湯煙と雪景色。

その二つが調和するという光景は、そう滅多に見られるものではない。ましてや、そこに絶景とも言える谷景色が加わったとなれば、風呂好きにとって、もうこれは至上の贅沢と言えよう。

「はにゃぁ〜」

それを証明するように、そのまま湯の中に解けてしまいそうな緩みきった溜息――だろう、たぶん――がゆっくりと発せられた。

「燐、あんたって、ほんっっっっとお風呂入ってるときが一番皺せそうよねぇ……:」

声共々表情も緩みきり、なおかつ軟体生物のようになっている黒鞘 燐を見て、鴻 美佳は湯船に足を入れながら呆れたように言った。

「でもま……気持ちは分からないでもないんだけどね」

肩まで浸かり、“ん〜〜”と伸びをする美佳。

なんだかんだで、美佳も燐のことは言えないようだ。その表情は、燐と同様、かなり幸せそうである。

「むぅ〜美佳ちゃん〜。タオルは取らなきゃ駄目だよぉ〜」

そんな美佳を見て、燐は眉根を寄せて抗議する。確かに、言うだけあって燐は透明な湯に、見事なプロポーションを惜しげもなく浸している。

「別にいいじゃない……。それに、私はあんたと違って恥じらい持ってるの。混浴じゃないからって、男と旅行に来て安心できるほどじゃないのよ」

「むぅ〜酷い〜。私だってぇ恥じらいくらい持ってるよ〜」

「こんな状況でハンドタオル一枚しか持たない娘が言っても説得力無いわよ」

「ん〜…………。美佳ちゃんはぁ和くんたちが覗いたりすると思うの〜?」

燐が、そう言って小首を傾げる。

その純粋無垢な態度を見ていると、林 和広達への疑いは一切無い。

「そうじゃない……かなぁ。まぁ、気分的な問題かな」

そう言って、美佳はあごの辺りまで湯に浸かった。

「でも……わかんないわよ? 一応、あの二人だって男だし、ひょっとしたら欲望にかられて……なぁんて」

そう言って、にんまりと笑う美佳。

それを聞き、燐は唇に人差し指を当てて思考を巡らせる。

「えっとぉ……和くんだったらぁ別にいいかなぁ……なんてぇ」

そう言って、燐は顔を真っ赤にしてお湯に更に沈み、ぶくぶくぶくと泡を発生させる。

「…………まぁ、私も別に薫だったらいいけどさ。和広に見られるのはちょっと……」

「薫くんはぁ……ん〜…………すぐに顔背けてくれそうだよねぇ〜」

「…………つまりは何? ちょっと見られるくらいならおっけーってこと?」

燐の答えに、燐はじろり、と横目を流す。

「美佳ちゃん……恐いぃ……」

射抜くような視線と威圧するような低音声に、思わず燐は逃げだそうとする。

「待ちなさいよ、こら」

しかし、美佳は無造作に燐の三つ編みを掴んでそれを阻止する。

燐は、それでもなんとか逃走を試みるも、予想以上にしっかりと掴まれているので、逃げようにも逃げられない。

「あう〜あう〜あうぅ〜〜」

手足をばたつかせる燐の口から出てくるうめき声は、半ベソになっていた。

「わ、私は和くん一筋だよぉ〜」

必死になってそう弁解するも、すでに目が据わっている美佳に、その必死の訴えは全く届かない。

「ふっふっふっふ……私の薫に不埒な真似をしようだなんて、天が神が地獄の閻魔様が許したって、私が許さないわよ……?」

ずごごごご、と地獄の底から腹の底へ響いていきそうな声で、美佳は言う。

「いやぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」

燐が、いよいよ本気で泣き出した。

 

 

「ふぅ……」

「ねぇ、和広君……なんでお猪口持って和んでるの?」

徳利を乗せたお盆を湯船に浮かべ、お猪口片手に悦に入っている林 和広を見て、十翔 薫は、真剣な表情で尋ねた。

「というか、それどっから持ってきたの……? ここに来るときは持ってなかったはずだと思うんだけど……」

「細かいことを気にするな。気分だ」

そう言って、和広はぐいっとお猪口の中身をあおる。

「ふぅ……」

そして、再び気持ちよさげに息を吐き出した。

「……ねぇ、和広君。僕と同い年だよね?」

「なんだ? いきなり。戸籍とかに間違いがなきゃ、間違いなく同い年だぞ」

「いや、ずいぶんと板に付いてるなぁと思って。お酒なんて、そうそう飲む機会ないはずなんだけど……」

「ああ、これか? ミネラルウォーターだ」

「……は?」

あっけらかんと言われた言葉があまりに予期せぬことだったため、思わず薫は目を丸くしてしまう。

「だから、ミネラルウォーターだよ。言ったろ? 気分だって」

そう言って、和広は再びお猪口に口を付ける。

「ふぅ……」

そして、今度も、同じように気持ちよさそうに息を吐き出した。

その光景を見ていると、どうしても酒を飲んでいるようにしか見えない。

実際、言われなければどうやっても中に入っているのが水だなどとは思えないだろう。それほど、和広の姿は板に付いていた。

(すごいというか馬鹿馬鹿しいというか…………なんだかなぁ)

“ふぅ〜”と、こちらは和広とは全く違う息を吐き出しながら、薫はそんなことを思っていた。

「燐、あんたって、ほんっっっっとお風呂入ってるときが一番皺せそうよねぇ……:」

と、仕切りの向こうから、美佳の呆れを全面に押し出したそんな声が聞こえてきた。

「…………」

思わず、薫は和広と敷居――というか、その向こうにいる相手――とを見比べてしまう。

(……これも、似た者同士なんだろうか?)

ふと、そんなことを真剣に考えてしまう薫だった。

「別にいいじゃない……。それに、私はあんたと違って恥じらい持ってるの。混浴じゃないからって、男と旅行に来て安心できるほどじゃないのよ」

「…………ふむ。案外、細かいことを気にするんだな、鴻は」

仕切りを通して聞こえてくる美佳の声に、和広が反応した。

「いや、それって女の子にしたら当然の考え方じゃ……」

「だが、鴻だぞ?」

「…………」

その言葉に、薫は言葉を返せなかった。

確かに、美佳ならば、そんな不埒なマネをした男など、瞬殺してしまうだろう。例え学園の生徒であっても、覗きをしている最中の無防備な男など、怒れる美佳の敵ではない。

そして、それは親しい和広であっても、恋人である薫でも変わらない。

そのことを、美佳の性格から和広達は熟知していた。

「えっとぉ……和くんだったらぁ別にいいかなぁ……なんてぇ」

「…………まぁ、私も別に薫だったらいいけどさ。和広に見られるのはちょっと……」

和広と薫の間に横たわる沈黙に滑り込むようにして、そんな女性二人の会話が聞こえてきた。

「か、和広君……顔、赤いよ?」

「ゆ、茹で蛸みたいになってる薫に言われたくはない……」

そう言って、お互いに顔を背けあう二人。

なんだかんだで恋人のそんな台詞に照れるあたり、この二人、そういう方面には純真で免疫がないようだ。

「薫くんはぁ……ん〜…………すぐに顔背けてくれそうだよねぇ〜」

そして、隣からそんな台詞が飛び込んできた。

瞬間、ぴしり、と空気が一瞬にして凍り付く。

和広が、ことさらにゆっくりと薫の肩に手を置いた。

びくり、と体をすくませる薫。

「薫……。ごめんで済んだら警察はいらないんだ。この意味……分かるよな?」

特別に威圧しようとかそういう雰囲気は微塵もない。

しかし、無駄に感情を発しない、完全な無感情は、それだけで何物にも変えがたい威圧となる。

和広の口調には、普段のぶっきらぼうな様子さえ、一切無かった。

ぎぎぎ、と錆び付いた音を立てそうな動作で、薫は首を元の位置に戻す。

その視界を、口調とは全く違う、普段は絶対に拝めないであろう、和広の満面の笑みがよぎった。

「わ、分かってるって……」

無理矢理に声帯をこじ開けたような震えとどもりのある声で、薫はそう言った。

「それならいいんだ」

普段のぶっきらぼうさを混じらせた口調に戻った和広が、そう言って薫の肩から手を離した。

「ふっふっふっふ……私の薫に不埒な真似をしようだなんて、天が神が地獄の閻魔様が許したって、私が許さないわよ……?」

そんなやりとりなど何処知らず、隣では未だ争いが収まる様子はなかった。

美佳の、そんな危険な声が聞こえてくる。

しかし、その前半部に、薫は思わず赤面してしまう。つくづく、感化されやすい性格と言えよう。

「いやぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」

そして、そんなほとんど泣き出しているかのような燐の声が聞こえてきた。

「燐!? 大丈夫か!」

それを聞いた瞬間、和広は咄嗟に立ち上がり、敷居へ向けて手を突きだした。

「風衝……」

「だわぁぁぁぁぁぁぁっ! それはまずいってぇぇぇぇッ! 向こうは女湯なんだよぉぉぉぉぉぉぉッ!!

和広がやろうとしたことを察知し、薫は本気で和広に飛びついた。

派手な水しぶきを立て、もつれ合って湯の中へ倒れ込む二人。

「離せ……がぼぼ……ぶぐぐ……燐が」

「だからって、がばっ……それはまず……ごぶっ……まずいってぇ」

しばらくの間、二人は共に譲らず、必死になって取っ組み合っていた。

 

 

風呂での騒動後、風呂場外で合流した和広達は、部屋へ戻る途中でいきなり女将に呼び止められ、別の部屋へとなぜか案内された。

そして、今、一行は部屋に入ったところでやや呆然としていた。

四対の瞳の先では、小綺麗に敷かれた布団が、四組、整然と並んでいる。

「……あの、これはいったい…………?」

呆然とした沈黙を破り、薫が疑問を投げかけた。

すると、女将が申し訳なさそうに、それでも鉄壁の笑顔を崩さずに言った。

「すいません。実は、さる高貴なお方がいらっしゃいまして……その関係で、部屋が足りなくなってしまったんです。それで、見れば同じ住所のご友人同士。申し訳ありませんが、相部屋でお願いいたします。あ、料金の方は、一部屋の半額とさせていただきますので……」

そして、返事を聞くこともなく、優雅な所作でその場を去った。

「…………さる高貴な方って、誰なんだろ?」

奇妙に漂う沈黙を破り、美佳がぽつりと言った。

「やめとけ、鴻。そういう連中に関わると、ロクな目に遭わないのは目に見えてる。余計な厄介事に首を突っ込むな」

ある意味、美佳の性格を熟知している和広は、速攻でそう返した。

「当たり前じゃない。そんなこと、言われなくたって分かってるわよ」

美佳は、いまいち貧者な胸を無意味に張って言った。

「美佳……その体勢で言っても説得力無いって……」

呆れたように溜息をつきつつ、薫が的確に突っ込んだ。

確かに、きびすを返そうとしたのを強引に止めたような姿勢で胸を張られても、説得力の欠片もない。

「そうだな……。それに、カモフラージュにしてもちょっと稚拙だな」

そう言いながら、和広は短く、そして素早く足を振った。その足に何か柔らかい物がぶつかった。

案外軽いその物は、蹴りの勢いに押されて宙を飛んだ。そして、ぽてん、という感じで敷いてある布団の上に落ちる。

どうやらそれは亀の形を燃しているらしく、ひっくり返って着地したために、ジタバタと手足をばたつかせている。

これは、美佳が偵察用に使う使役獣、ミッファだ。感覚器官を共有することによって、非常に高度な偵察が可能となるため、意外にミッションでの重要度は高い。

「あーこら、私の可愛いミッファを足蹴にするなんてどーゆー了見よ!?

「やかましい。そういうことをするから、お前はトラブルメーカーだと言われるんだ。あざといマネをするな」

「うるさいわね! 知的好奇心を満たそうとして何が悪いっての!?

「お前のは単なる出歯亀根性だ。言葉で飾るな」

「我慢はストレスの元で体に悪いのよ? 美容のためにもきちんと探求しないとならないのよ!」

「欲望だけで行動するな。少しは理性を持て」

「誰が欲望だけで動いてるって!? 誇大妄想はやめてよね」

ぎゃーぎゃーと、美佳と和広はひたすらに不毛な言い争いを続けている。

「あ、燐ちゃん、お茶入ったよ」

「わ〜ありがと〜」

そして、その二人に見切りを付けた二人は、隅っこに寄せられたちゃぶ台でゆったりとお茶を飲み始めていた。

「美佳ちゃんと和くん〜仲良いよねぇ〜」

音を立てず、優雅かつ美味しそうにお茶をすすり、燐はふとそんな事を言った。

「そうだね……。なんだかんだで、気があってるんだろうね。まぁ、僕としてちょっと阻害されてるみたいで寂しいと思うときもあるんだけどね」

そう言って、湯飲みを持ったまま、表情を翳らせて苦笑する薫。

確かに、和広みたいに本音で言い合うほどの気の強さが薫にはない。そのため、どうしてもああいうぶつかり合い、というのができない。

お互いの心が繋がっていると言うことは十分に理解しているが、それでも、やはり自分に出来ないことをされると、不安とも寂しさともつかない感情に囚われてしまう。

「確かにぃそうかもぉ〜。……そうだぁ〜薫くん〜もう少し仲良くしようかぁ〜?」

そう言って、燐はちゃぶ台に身を乗り出して薫へと顔を近づけた。

「え、あ、そのぐふっ!」

その態度に、薫が思わずどもった瞬間、薫の側頭部に二つの枕が同時に衝突した。

「ぐっ……」

衝撃に揺さぶられた薫は、壁に反対の側頭部をぶつけてしまい、うめき声を上げる。

「薫! 浮気なんてしたら、死んだ方がマシだって思わせてあげるわよ!?

「燐に手ぇ出したら、ぶっ殺すぞ、薫」

そんな二人に、美佳と和広は容赦や冗談の一切無い言葉を実直に叩きつけた。

(べ、別に僕は何もしてないじゃないかぁぁッ!)

チカチカとする意識の中、薫は思わず心の中でそう叫んでいた。

言葉にしなかったのは、やはり命がまだ惜しいからだろう。今の二人に言い訳じみたことを言えば、間違いなく第二撃が襲いかかってくる。

しかも、次は枕などと生易しいものではなく、恐らくは魔法が飛んでくるだろう。さすがに、怒れる二人の魔法を喰らって生きている自信は、薫にはなかった。

そして、薫の意識は、胸中で叫びつつ、段々と闇の中へと没していった。

壁にぶつかった反動で反対側に倒れ、そのままぴくりとも動かなくなる薫。

一瞬、沈黙が降りる。

燐が、そうっと薫の顔へと手を伸ばす。

「……」

わずかな停止の後、燐はその指で丸を作った。呼吸をしている、という意味だ。

「あーびっくりしたぁ……」

下手をすれば死にかねない攻撃を加えておいて、びっくりしたもなにもあったものではないが、とにかく美佳はほっと胸をなで下ろした。

「さすがに鴻に鍛えられてるだけあって、頑丈だな、薫は」

「かぁずぅひぃろぉ〜? それ、どういう意味かなぁ〜?」

「言葉通りの意味だ。少しは頭を働かせろ」

おどろおどろしい美佳の問いかけに、和広は平然と辛辣な言葉を浴びせる。

美佳のこめかみに、ぴきりと青筋が浮かんだ。

「も〜やめてよぉ〜。それじゃぁ〜ずっと終わらないよぉ〜。もういい加減寝ようよ〜」

と、今度はとっくみあいになりそうになったところで、燐がそう唇を尖らせて抗議した。

しかし、時刻はまだ9時をやや回ったところだ。仮にも年若い学生が旅行にやってきているというのに、出てくる言葉が寝よう、というのでは、健全すぎて逆に妙な感じがする。

「そうね。明日は遊び通すつもりだし、寝ておいた方がいいかもね」

そして、意外なことにこういう場でもっとも反対しそうな美佳が、真っ先に同意した。

「……鴻のことだから、徹夜で遊ぶつもりかと思っていたんだが…………」

「あーそれも考えたんだけどね。それやると、明後日辛いじゃない。だから、一日遊びまくればそれでいいわよ」

「それもどうかと思うが……まぁ、いい。すでに寝ている奴……いや、奴等もいるようだし、さっさと寝るか」

「へ?」

和広の言葉に、美佳は視線を動かす。

「すーすー」

すでに、布団の一つには、静かながら寝息をしっかりと立てている燐がいた。

ちなみに、もう一人は当然ながら薫だが、これは気絶で寝ているのとは違う。しかし、起きる気配のない薫の認識は、二人の間ではすでに睡眠に切り替わっていた。

「そーね。んじゃ、お休み」

「ああ」

和広は燐の隣に、美佳は薫を布団に押し込んでその隣にそれぞれ潜り込んだ。

(そういや……なんか忘れてるような気がする…………)

ふと、和広の頭にそんな疑問がよぎった。

「ん〜和くん〜好きだよ〜」

「寝言で何言ってんだか」

しかし、燐のそんな寝言に些細な疑問は吹き飛ばされ、和広は顔をほころばせて、ゆっくりと眠りの淵へと沈んでいった。

始まったばかりの夜は、平和にゆっくりと更けていく…………。

 

 

〜余談〜

二日後、学園へと戻った四人は、すぐさまとんぼ返りで宿まで戻ってきた。

それというのも……本来、ミッションのために行ったはずなのに、四人揃ってすぽーんと忘れて遊びほうけていたからだそうな。

 

作者より一言。

お仕事は責任を持ってやりましょう♪




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