「あれぇ……?」

「へ?」

のぉんびりとした声に、鴻 美佳は思わず振り返った。その先にいるのは、ぽわんとした表情を浮かべている見知った顔。首を傾げる動作につられて、トレードマークとも言える三つ編みが揺れる。

黒鞘 燐だ。今し方訪ねてきて、美佳自身が上がるようにと言ったのだ。間違いない。

しかし、美佳はその中にいつもとは違うものを見つけた。常人であれば区別が付かないだろうが、その表情にわずかな、本当にわずかではあるが、咎めの色が見て取れたのだ。

 

ずどがーん!!

 

刹那、すさまじい爆発音が起こった。恐らく、美佳も燐も叫び声を上げたのだろうが……互いどころか、自分の叫び声さえほとんどかき消されているだろう。それほどまでにすさまじい爆発音だ。

しかし、不思議というか妙というか……煙が溢れたり、炎が散ったりということはない。その証拠に、キッチンはほとんどその姿を変えていなかった。

若干、ガラスものが割れていたりテーブルの上にあった花瓶が落ちたり、燐が驚いて頭を棚にぶつけたり美佳が尻餅をついていたりといったことはあるが……ごくごく軽微な被害と言えよう。

「美佳ちゃぁ〜ん。使役獣使ったらぁダメだって言ったのにぃ〜」

棚にぶつけた後頭部をさすりながら、燐が抗議の声を上げる。結構痛かったらしく、目尻に涙が浮かんでいる。

「いや、そう言われても……。ほら、みんなが手伝いたいって……」

「自分でぇ作るんでしょぉ〜? 手伝ってもらったりしたらぁ、めっ!」

イタズラをした子供をお姉さんが叱るように、腰に手を当てて言った。

「いや、そんな子供諭すみたいに言わないでよ……」

力無く反論する美佳だが、しかし、燐の指摘は的を射ている。それが分かっているだけに――そもそも、自分がいけないのだ――強く言い返せない。

「そもそもぉ、どうやったらぁ、お料理で爆発なんかするのぉ〜?」

そう、美佳は――他人がどう言おうと、本人の意識としては――料理をしていたのだ。

確かに、キッチンの所々を見れば、それと見えなくもない痕跡は苦労することなく見つけることが出来る。……もっとも、それだけに別のところで苦労しそうだが。

「そんなこと言われても、わかんないわよ。調味料入れたら…………」

「…………それぇ、油ぁ」

「……で、でも、調味料に油は」

「その油は調味料じゃないよぉ〜。量だってそもそも多すぎるしぃ。それにぃ、サラマンダーなんか使ったらぁ、温度高くなり過ぎちゃうよぉ〜?」

「ちゅ、中華は火力が」

「炭でも作るのぉ?」

『……』

二人の間を、一瞬、和やかな沈黙が支配した。

「いたい〜いたい〜いたい〜ぃ」

その沈黙を破ったのは、燐だった。……いや、正確には破らされたと言った方が良いかもしれない。美佳が、燐のこめかみをぐりぐりと圧迫しているのだ。

「このこのこのこの……」

「いたいぃ〜。八つ当たりはぁ〜やめてよぉ〜」

いつも通り間延びしている……が、今にも泣き出しそうだ。ちなみに、美佳はいかにも『逝ってます』と形容できるような剣呑な光を瞳に宿したまま「このこのこの」と呟きながらぐりぐりと燐を攻撃し続けている。

「いたいぃ〜〜〜〜っ!」

その様子を、呼び出されたままの使役獣達が呆然と眺めていた。

「あっ、そうだ。燐、ごめん。ちょっと寄り道したいんだけど、いいかな?」

「ん〜? いいけどぉ〜どこぉ〜?」

相変わらず間延びした声と垂れ流しの笑顔で返す燐。その笑顔を見る限り、一片の悩みも見いだすことは出来ない。

だが、実際の話、燐に悩みは不要なのかもしれない――そうでないと分かっていながら、美佳は、時々そう錯覚の念を覚えて仕方がない。

 スタイルも顔も良く、家事全般も全く問題が無い。更に言うなら、腕も達者で、和広との相性も抜群。

恋人としても順風満帆な生活を送る燐は、生来の脳天気さと相まって、周囲の者の胸が空いてしまうような雰囲気を醸し出している。

普通であれば妬みの一つも買いそうなものだが、燐にはそういう気振りは全くない。

 一種の才能であると同時に、それが欠点にもなっているからかもしれないが――どちらにせよ、得な性格と言えるだろう。

「美佳ちゃん〜? どうしたのぉ?」

と、燐が不思議そうに尋ねてきた。燐の顔を見つめていたことに美佳は気付き、なんでもない、と苦笑して言葉を続けた。

「どこ行くかよね。んと、『リッカ』でちょっと買いたい物あって……」

「でもぉ〜、リッカはぁ〜本もぉおいしいお菓子もぉ、置いていないよぉ〜?」

どうしてぇそんなところにぃ行くのぉ? と言った感じで燐は小首を傾げる。

「あんた……私が寄り道って言うと食べ物か本かしかないと思ってんの?」

こめかみをぴくぴくさせつつ、出来るだけ平静を保ちながら聞き返す。しかし、燐はこともなげに……

「うん〜。他にぃ〜美佳ちゃんからぁ誘った所ってあったぁ〜?」

「うっ……」

即答され、言葉に詰まる美佳。そう、美佳から本か食べ物以外で寄り道に誘うと言うことは、中学校2年からの付き合いであるが一度もなかったのだ。

小物を買いに行ったり、遊びに出かけたりというのは、ほとんどが燐の誘いによるもの。残りの数少ない例外は、他の友人や和広達男性陣の誘いによるものだ。

「でもぉ〜、なんでリッカなのぉ?」

絶妙のタイミングで、燐が話を戻した。……とは言っても、本人は意識してないだろうが。

「だって、あそこが一番品揃え良いって言ってたじゃない、調理道具」

「………………え?」

燐が、笑顔を凍り付かせ、ぱちくりと瞬きする。どうやら、美佳が言ったことを認識できていないようだ。

「だからぁ〜、調理道具よ」

「…………なんでぇ?」

その言葉を噛み含めるように間を置き、燐は更に尋ねた。

「調理道具で戦闘訓練するわけないでしょ?」

「…………美佳ちゃんがぁ、お料理するのぉ〜?」

「そうだけど…………って、なにしてんのよ、あんた」

露骨に不審な声色で、美佳は尋ねた。その事実が示すことを理解できるが、念のために一応尋ねた、という雰囲気だ。美佳の目が、少しばかり危険な角度をなしている。

それもそのはずだろう。燐が、突如として美佳の額に手を当てたのだ。そして、お約束通り、反対側は自分の額に当てられている。

「ん〜? 熱はぁ〜ないよねぇ〜? んと、昨日ぉ、なに食べたぁ〜?」

 

ガスッ!

 

「殴るわよ」

「殴ってから言わないでぇ〜」

握り拳を震えさせている美佳に対して、痛みに声を震わせながら反論する燐。お約束過ぎる展開である。

「でもぉ〜本当にどうしてぇ〜? 『今は男女平等! 料理が女の価値じゃないのよ!』ってぇ調理実習の時にぃ言ってたよねぇ〜?」

「お願いだから、あのときのことは言わないで……」

うぅ……と呻くように言う美佳。

と言うのも、実はその台詞は、調理実習の時に生卵を(一応、誤って)握りつぶした挙げ句にケーキの生地を爆発させたときのものなのだ。未だもって、どうして生地が爆発したのかは謎である。

口でどう言っていても、やはり本人はそれなりに気にしているようだ。

「私もあんまり気が進まないんだけどね……でも、薫の誕生日が近くて、それで何が欲しいかって聞いたら…………」

そこまで言ってから、はっする美佳。勿論、燐は横でニコニコと満面の笑顔だ。……その笑顔の中に、わずかにイタズラっぽい雰囲気が混ざっているのが分かるのは、やはり美佳だからだろう。

「け、結局、付き合うの? 合わないの!?」

ぷいと顔を逸らしてぶっきらぼうに言う美佳。その頬が赤く染まっているのは、夕焼けのせいだけというわけでもないことは想像に難くない。

「付き合うよぉ〜」

燐は、満面に笑みを浮かべて嬉しそうに答えた。

 

 

 

料理というのは、ある程度決まったプロセスの元に作られるものだろう。先人達が組み立ててきたものというのは、料理においても理にかなったものであることが大半である。

それ故に、人はそれに習い、それを工夫する。そうすることによって、人は長い歳月を以て食に喜びを見いだすまでに至ったのだ。

しかし、工夫――すなわち、応用とは基本の上に成り立つもの。基本に始まり基本に返る、とは全ての事柄に当てはまる格言と言えよう。

基本がなければ、どれだけ努力しようとも上を目指すことは敵わない。上、とは、基本を行う人間に与えられた特権なのである。

故に…………

「…………まずい」

「…………うみゅぅ」

思いっきり顔をしかめる燐と美佳。

二人の前には、一見しただけでは食べ物と言って良いのかさえ分からない物体が置かれている。

既に、人が作り上げた言葉ではそれを形容することさえ敵わない。……そこをあえて形容するならば、『黒炭』。

これでは、料理として形容することは天地がひっくり返っても叶わない。

「……なんで、こんなの食べてるの、私達は?」

「美佳ちゃんがぁ〜食べてみればぁおいしいかも、ってぇ言ったからだよぉ〜」

燐が、目幅一杯の涙をさめざめと流しつつ、眉間にしわを寄せている美佳に非難の声を向ける。

「ってか、どうしてこんなのがおいしいって理論が成り立つのよ……。誰がどう見てもやばいって分かるじゃない」

「知らないよぉ〜。美佳ちゃんがぁ〜……」

「ああ、分かったから」

投げやりな言葉を発しながら、美佳は手をヒラヒラと振って燐を黙らせる。

ちなみに、どうしてこれを食べることになったのかというと……ほとんど逝ったままの状態で美佳が無理矢理に燐を納得させて(?)、これまた無理矢理よそってテーブルにつかせたわけである。

美佳は、口に含んだところで運悪く意識が戻ったというわけだ。

……いや、むしろ、あまりのまずさに意識が戻った、と言った方が良いかもしれない。

ただ焦げているだけでなく、美佳は非常に多種・多量の調味料を加えたらしく、それだけ混迷した味に仕立て上がっていたというわけである。

「うぅ……最近の美佳ちゃん〜いじめっこぉ〜」

ザーと形容したくなるような量の涙を勢いよく流しながら抗議する燐を完全に無視し、美佳は懲りずに再びキッチンに立っている。

「やっぱり、ご飯の量が少ないのかなぁ? それとも、最初に敷く油かなぁ?」

ぶつぶつとレシピを見ながら首を捻っている。

「わん!」

「しゅ?」

「あっ、ごめんね。二人とも、あっちで遊んでてくれる? あとで、一緒に遊んであげるから。やっぱり、自分でやらないとね」

足下から発せられた鳴き声に、苦笑混じりに美佳は答えた。ロージとサラマンダーが、残念そうな表情を浮かべながらも、おとなしく引き下がった。

本来、使役獣とは何らかの目的をもって呼び出される存在だ。目的が終われば本来あるべき場所に、自らの意志で帰る。

だが、美佳がお気に入りと称するいくつかの使役獣は、美佳の言葉なくして戻ろうとはしない。それは、使役獣達が美佳と共にいたい、という願望を持っているからに他ならない。

(美佳ちゃんてぇ、きっとぉいいお母さんに、なるだろうなぁ〜)

美佳と使役獣が繰り広げる模様は、まるで親子を彷彿させる。絶対の信頼関係を持っているからこそ、あり得る光景。

美佳達の様子を見て、思わずそんなことを考えてしまう燐だった。

「ところでぇ〜何を作ってあげるつもりなのぉ〜?」

「肉じゃがとか野菜炒めとか、そう言う和食のつもり。和広、そういうの好きらしいし。あと、ケーキでも作ってあげられたらいいなぁとは思ってるけど?」

首だけを巡らせて、大まじめに言う美佳。

「…………。それでぇ、なんでぇ、チャーハン作ってるのぉ〜?」

一瞬間を開け、深く息を吸い込んで問い掛ける燐。恐らく、これは誰にでも分かるだろう。心なしか、声が強ばっている。

「えっ? だって、チャーハンって料理の基本でしょ?」

きょとんと、一切の疑問も含んでいない声で返してくる美佳。

「……美佳ちゃん。チャーハンってぇ中華料理の基本でぇ和食の基本じゃないよぉ〜?」

「……………………あと、1週間」

「頑張ろう、ね?」

さすがに、この時ばかりは燐も他に言葉が思いつかなかった。

 

 

 

「……で、なんで俺がここにいるんだ?」

気が付けば、目の前には綺麗なテーブルクロスの敷かれたテーブルに皿やらフォークやらナイフやら箸やらが並べられていた。

視線を少し上げれば、色とりどりの飾り付けが目を楽しませてくれる。

「さぁ? 僕も、来たばっかりだから……」

そして、真っ正面には、少々面食らった感じながらも嬉しそうな十翔 薫が座っていた。

そして、動き回りつつテキパキと料理を運んでくるのは、燐と美佳。

「…………ふむ」

慌てず騒がず、和広は頭の中で自分なりに状況を整理してみることにした。

・学校が終わる→燐と美佳に呼ばれる→燐、なにかしゃべろうとした→意識暗転→現在に至る

・備考 今日は自分の誕生日ではない

「ちょっと待てぇっ!?」

状況が明確になるやいなや、和広は思わず叫びながら立ち上がった。

「鴻! お前、なにやった!?」

「えっ!? な、なにが?」

美佳が、突如あげられた声にびくっとなる。

「なにがじゃない! お前、なんか魔法かけただろ!?」

そう、冗談でもおふざけでもなく『気が付いてみたら』ここにいたのだ。

意識が暗転する前、目の前にいた燐に不審な動きは一切無かった。とすれば、美佳が何か仕掛けてきたと考えるのが自然だ。

いかに魔法へ耐性があっても、油断していればあまり意味がない。しかも、意識が覚醒しているなかでもっとも緊張が緩む午後の授業終了直後のことだ。

ましてや、美佳は召喚可能な使役獣ランクは高くないものの、使役魔法の扱い方においては一流と言える。その上、燐をおとりに使われれば、引っかかって当然だ。

「すぴ〜」

と、更に和広が美佳へ詰め寄ろうとした途端、なにかの寝息のような声がが聞こえてきた。

「あっ!?」

美佳が、思わずしまった、と言わんばかりの声をあげる。

音を辿ってみれば、そのの正体は、『スリーカー』――誘眠効果のある音波を出すことが出来る使役獣だった。

「お〜お〜と〜り〜?」

「あ、あはは……ま、まぁ、良いじゃないの。実害はないんだし……」

「そうだよぉ〜。こうでもしないとぉ和くん、来ないでしょ〜?」

「……」

燐にそう言われ、あながち間違いでないだけに、反論できず無言になる和広。実際のところ、薫の誕生日会には出席しないつもりだったのだ。

「はぁ……まぁ、いいだろ」

諦めたように溜息をつき、座り直す和広。

「ごめん。なんか、無理矢理付き合わせちゃったみたいで……」

「別にいいさ。よく考えたら、俺がいるから興が冷めると言うこともないだろ」

ひょいと肩をすくめて、申し訳なさそうに体を縮こませている薫に言う。

(しかし……大丈夫なんだろうな?)

目の前に並んでいく料理を見ている内に、和広の心の内でじわじわと不安がつのっていく。

味見をしてくれと燐から頼まれ、初めて美佳の料理と壮絶な邂逅を果たした後も、どういうわけか、毎日、弁当に必ず一品は混入されていた。毎回死にかけになっているにも関わらず、だ。

美佳の料理の特訓に燐が付き合わされていることは聞いていたので、ひょっとしたら、巻き添えを出したいのではないか、との考えが脳裏に浮かんだこともある。

だが、まさかそんなことを聞くわけにもいかず、結局、和広ははずれに内心びくびくしながら食べていた。

その記憶が、鮮明すぎるほどに残っているのだ。

しかし、思ったほど美佳の料理の腕は絶望的ではなく、日増しに上手くなっていった。恐らく、人類の食べ物になるのも時間の問題だろう――時間さえあれば。

最後に食べたときは、異次元の食べ物と言うほどではなかったが、それでも口に入れるのはためらわれる味だった。

しかし、それを薫は知らない。美佳によって厳重な箝口令が敷かれていたためだ。

その時の迫力は、和広でも殺されると思ったほどで、さすがに口外する気にはなれなかった。

「はい、これで全部っと」

考え事をしている内に準備は着々と進んでいたらしく、今、美佳の持ってきたのが最後らしい。

「すごいねぇ〜。これ、二人で作ったの?」

「そうだよぉ〜。だいたい、半分ずつかなぁ〜」

テーブルに所狭しと並べられた料理の数々。種類も多く、形も工夫されていて視覚的にも楽しめる。

薫が、感心したような嬉しそうな表情で、せわしなくきょろきょろと料理の上に視線を走らせている。

(なるほど。半分は爆弾ということか……)

だが、目を輝かせている薫とは反対に、和広は脂汗を流している心境だった。

見た目では、どれがどっちの作なのかを判断することは出来ない。――厄介なことに、学校が休みになった数日で、そこまで美佳の料理の腕は上がっているらしい。

「どれをどっちが作ったの?」

 やはり気になるのか、薫がそんな質問を投げかけた。

(よし、よく言ったぞ!)

思わず、心の中で叫んでしまった和広。意図したわけではないだろうが、この上ない助け船だ。

「それは……食べてからのお楽しみって事で」

そう言って、謎めいた笑みを浮かべる美佳。

(こいつ……!?)

思わず、和広の内心に殺意が沸いてしまう。

「ん?」

ちょんちょんと、隣に座った燐に太股の辺りをつつかれる。

「ごめん〜。実はぁ、私も美佳ちゃんも〜舌、麻痺しちゃってるのぉ」

燐が、ひそひそととんでもないことを言ってきた。

「ちょっと待て。ってことは、味がどうなってるか分からないってことか?」

「うん……。だから、悪いかなぁとは思ったんだけどぉお弁当に入れてたの〜。でも、実際にどうなってるか分からないからぁ今日のは……」

「胃薬、効くか……?」

少量でもきつい料理だったのだ。それが、半分近く混じっている……あまりに分の悪いロシアンルーレットだ。

和広が、絶望しきった声で呟く。

「うぅ〜。この時間になると、さすがに寒いねぇ〜」

美佳が、ぶるっと体を震わせる。時折吹く風と、太陽が沈んでしまった分、気温も体感温度も低くなっている。

「うーん、何か羽織ってくるべきだったかな?」

「そうだったかもね……っとと、どうしたの?」

面食らったように、薫が尋ねた。

突如、美佳が薫の腕を取ったのだ。

「こうしてると、少しは暖まるかな、って」

「どうだろうね?」

お互いの顔を見て、笑いあう。

「……なんか、信じられないな」

ひとしきり笑った後、懐かしむように、薫が夜空を見ながら呟いた。言葉と共に吐き出される薄く白い息が、どこへともなく流れていく。

「なにが?」

「こうやって、美佳といられることが」

「どうして?」

「だってさ。大したことない人間だから、僕は。何をやっても必ず埋もれる。周りを見れば、どこもかしこも壁ばかり。なんか、時々すごく場違いな場所にいるような気がするんだ」

寂しそうな、諦めきったような――存在自体が曖昧な声。このまま、どこかへ行ってしまいそうなほど。

それを感じ、美佳はことさらに明るい声で言った。

「そんなことないんじゃない? 仮にも、この学園の生徒。最難関を通ったのよ?」

「確かに、名目上はね。でも、推薦じゃないし、僕は一般試験でも下の方だから。周りから、『なになら誰』みたいな感じの人間じゃない。いったい、そんなの人間に、学園で何の価値があるのかな、って」

薫は、実際、目立たない。最近は目立つようになってきたが、それはあくまで燐や和広、そして美佳と一緒にいるからで、自分の存在が目立っているわけではない。

それが、たまらなく惨めに感じられることもあるのだ。

「だからね、1年の頃はすごく時間の経つのが遅かった。周りに押しつぶされそうで、耐えるのに精一杯だった。とにかく、少しでも気を紛らわせたくて……色々とやったっけ」

心底から懐かしむような口調だった。だが、その裏に隠されているのは、間違いなく苦渋の日々の思い出だ。

美佳は、なにも言えなかった。まさか、薫がそんなことを思っているとは夢にも思わなかったのだ。

1年もクラスメートだったから、よく知っている。1年の時は、いつも損な役割ばかり押しつけられていたけど、それを笑顔で引き受けて、時には嫌な顔をしながらもしょうがないなぁと言ってなんでもない事のようにテキパキとこなしていた。

細かい事務系の作業などが苦手な美佳にしてみれば、その手際に感心したものだ。

「あとは……そうだね。狙われないようにかな?」

「狙われないように……?」

「うん。簡単に言えば、いじめられないように、ってこと。この学園は、推薦組と一般組の格差が大きいだろう? そのせいで、推薦組がそういうことをするからね。もちろん一部だけど」

できるかぎり、他人の不信感を買わないように。買っても、なんとか誤魔化せるように――薫は、一年間をそう過ごしてきたのだ。

薫の受動的な態度と笑顔の裏に隠された痛みと苦しみ。何かを言おうと言葉を探すが、美佳は沈黙を重ねる以外に術を持ち合わせていなかった。ただ無言で、星空を眺める薫の顔を注視していた。

「他にできることがないから、ああしてたんだ。そういう意味で、僕は幸運だったんだろうね。僕の友達もやられたんだ……命だけはなんとかとりとめたけど、退学せざるをえなくなった」

学園では、年に数回在籍簿の書き換えが行われる。基本的に削除されるのは、厳しい授業についてこられなくなった生徒や、ミッションによる死亡や怪我による復帰の見込みのない生徒である。

しかし、毎回数人――1年で10数人――不慮の削除が混じる。直接的に命を失ったという事例こそないが、ほとんどはその次くらいに酷い。

学園側も、対策を行ってはいるのだが……いかんせん、頭のいい生徒が多い学校というのが災いし、露見する頃には手遅れということが大半だ。

「そんなことがあって、しばらくは疑心暗鬼でね。推薦組が全く信用できなかった。『ああ、推薦組にしてみれば、僕らはただの的でしかないんだ』……そんな風に思うと、憎くてたまらなかった。まぁ、正直言っちゃうと、美佳もその対象だったんだよ」

普段の美佳だったら、憤怒してつかみかかっただろう。

しかし、薫の言葉があまりに重くて、信じられなくて、恐くて――一番優しくて、なにも言えなかった。

「僕らのクラスでも、あっただろ? その時、美佳すごい顔して怒ってて……下手したら、相手を殺しちゃうんじゃないかって心配したんだよ」

 当時の様子を思い出したのか、楽しげに微笑を浮かべる薫。自分でも思い出したのだろう、美佳は頬を若干赤く染めている。

「その後からかな? なんか、美佳が気になり始めたのは。最初は、『あんな事言ったって、本当は蔑んでるんだろ……?』なんて考えからなんだけどね。今、なにを考えてるんだろう? もし、こうなったらどう動くのかな? ああなったら、どんな風に思うだろう? そうやって見てる内に、推薦組だからあんなことをするんじゃない、なんて当たり前の事に気付いて……そうしたら、いつの間にか、好きになってた」

「大丈夫だよ。私は、大丈夫」

「うん。分かってる」

なんの躊躇もなく、薫は美佳に賛同した。

「でも、どうしたの? 急に」

「ん。なんとなくね。伝えておきたかったんだ……僕がなにを考えていたか」

(やっぱり、好きなんだな……)

薫の真剣な声を聞いて、美佳は改めてそう感じた。

「ねぇ、薫」

「ん?」

声の調子が少し違ったことに気付いたのか、薫が美佳へと顔を向けた。

「!?」

突如、薫の唇に、美佳のそれが触れた。

数秒の制止。

「えへへ……」

唇を放し、照れ笑いを浮かべる美佳の頬は、夜目にも分かるほど紅潮している。

「不意打ちは酷いな……」

同じく真っ赤になった表情を、まるで押し隠すかのように渋い表情を作っている薫に、美佳は爽やかな笑顔を向けた。

「大丈夫だよ。私は分かってるから」

それが、薫のなにに向けられた言葉かは分からない。それでも、薫は答えた。

「うん、そうだね」

 

 

〜余談〜

 

「燐……。大丈夫か?」

「ちょっとぉ……きついかもぉ」

燐と和広がテーブルに突っ伏していた。今、部屋にいるのは二人だけ。美佳と薫は、燐のすすめで散歩に出ているのだ。

「さすがに、きつかったな……」

「うん……。量が多いからぁ……」

美佳の料理は、確かにだいぶマシになっていた。しかし、いかんせん量が多いため、蓄積していってしまい、耐えきることができなかったのだ。

「燐、胃薬のんどけ」

そう言って、水の入ったコップと錠剤を数錠、渡す。

「ありがとうぅ〜」

錠剤を口に含み、こくこくこくと水を飲む。

「うぅ……お腹の中に残ってて気持ち悪い……」

すでに、水さえも受け付ける限界まで来てしまっている。

「俺もだ……」

こちらも、かなり危険らしい。

「しかし……薫の奴、よく平気だったな」

「そうだよねぇ……。美佳ちゃんはぁ食べる量が少なかったからぁまだ分かるんだけどぉ……」

先ほども言ったとおり、薫と美佳は散歩に行っている。

つまるところ、主賓であり、事情を知らなかった薫が一番料理を食べたにもかかわらず、体調が絶望的ではないということだ。

「……明日、休みでよかったな」

「ホントだねぇ……」

しみじみと、天の采配に感謝する二人だった。

 

P.S. 燐・美佳・和広・薫の4人は、明後日揃って欠席しましたとさ。

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