熱気の凄まじかった昼間とは打って変わり、未だ蒸す中にあっても、涼やかな雰囲気があった。
 林 和広は、そんな中で一人溜息をついていた。手には、どういうわけかデッキブラシがある。

「和くん〜。早くやらないと〜終わらないよぉ〜?」

 その様子を見て取った黒鞘 燐が、ひょこっと和広を窺ってきた。

「ああ、そうだな……終わらないな。けどな……誰のせいでこんな広々とした場所の掃除をやらなくちゃならないと思ってるんだ?」

 あくまで脳天気な燐に、和広は震える声で言った。
 二人がいるのは、パークランドプール内の一つだった。競泳用プールから娯楽用プール、子供用プールまである、総合的なレジャープールだ。その上、広大な遊園地までがあり、メディアでは二日無ければ遊びきれない、とまで言われているくらいだ。
 そのため、一つのプールとは言え、かなりの大きさを誇る。そこにいるのは、和広と燐、そしてそのほか三人だけだ。掃除するのが競泳プールのプールサイドだけとは言え、50mと25mがそれぞれ10レーンもあるプールを掃除するには、あまりに少なすぎると言える。

「だってぇ〜。ここが一番割が良いんだもん〜」

 ぷく〜とむくれてみせる燐だが、和広もさすがに今回ばかりはその顔に騙されていられなかった。

「割が言い訳ないだろうが! もっと割の良い実習はたくさんあった!」
「そんなことないもん〜。二食付いてくるし〜お給料も出るし〜その上危険もないし〜すごく割がいいもん〜」
「だからって休みをほとんど潰すようなものを選ぶ必要が何処にある!? 休み中は訓練だってやらなくちゃならないんだぞ……?」
「おーい、お二人さん。さっさとやってくれ〜。全然終わんねーよ」

 二人の口喧嘩……というよりも痴話喧嘩を遮って、掃除をしている一人が声を張り上げた。確かに、端から見ているとサボっているようにしか見えないだろう。

「あ、は〜い」

 返事をし、燐がさっさと掃除に戻る。

「あ、こら、まだ話は……」
「はいはい、さっさとやってちょうだい。時間無いんだから!」

 なおも言い募ろうとした和広の言葉を、近づいてきた少女が遮った。

「あー分かったよ……」

 掃除に戻りつつ、事の起こりを思い起こしながら、和広は大きく溜息をついた。



「燐、あんた、成績表見せなさい」

 終業式が終わった瞬間、鴻 美佳は燐の教室に駆け込んでくるなり、燐の側に来てそんな事を言った。

「……どうしたんだ? 鴻」

 その様子に、燐と談笑していた和広は、怪訝な表情で尋ねた。

「あーたぶん、そのうち分かるとは思う」

 ちらりと視線を投げかけて答えたが、全く要領を得ない返答だった。

「はぁ?」
「ほら、燐、見せなさい」

 訳が分からず、といった様子の和広にはそれ以上目もくれず、美佳は燐に促した。

「別に〜いいけど〜?」

 そう言って、受け取ったばかりの成績表を渡す燐。
 渡された成績表を見て、美佳が硬直した。

「どうしたの〜?」

 燐が、へにゃへにゃと美佳の眼前で手を振ってみるが、反応はない。

「あ〜やっぱりここだ。いきなり消えるからどうしたのかと思ったよ」

 そんな間抜けをやっている間に、十翔 薫が姿を現した。

「あれ? 美佳、どうしたの?」

 教室の中へ入ってきた薫が、固まっている美佳を見て怪訝そうな表情を浮かべた。

「美佳ぁ〜〜?」

 ぽんぽん、と薫が横から美佳の肩を叩く。

「へっ?」

 ようやく気付いたらしい。きょろきょろと首を振っている。

「あ、燐、これ、返すね」

 思い出したらしく、美佳は燐に成績表を返した。

「うん〜」
「あー、あと、それからあらかじめ言っておくけど」

 そこまで言い、美佳は横にいた薫の腕を抱えた。

「み、美佳……!?」

 これには、傍観者であった薫が驚いてしまった。だが、美佳はそんな薫の事などお構いなしに言葉を続ける。

「今年は手伝わないからね。今年は薫とデートなんだから」
「そ、そうなの……?」
「なに? 違うっての?」

 薫の疑問を、じろりとでも表現したくなるような目線で受け止める美佳。すでにそれは疑問ではなく、強制の色が強い。それくらいに恐い。

「い、いえ、その通りです」

 その怖さと勢いに押されて思わず薫は肯定してしまった。

「ってことで、今年は彼氏を使いなさいよね」
「なぁ、鴻。さっきから聞いてるとすごい不吉な予感がしてならないんだが……」

 妙な言い方ばかりをする美佳の様子に不安が募っていくばかりなのか、たまりかねたように和広が尋ねた。

「あーうん、そうだと思う。あんたも災難ねぇ……」

 "はぁ〜"と大きく溜息をつき、同情の視線を投げかけてくる美佳。さすがの和広も、その様子に冷や汗を流してしまう。

「おい、燐。成績表、見せろ」
「別に〜良いけど〜?」

 きょとんとした表情で、燐は返ってきたばかりの成績表を和広に渡した。

「ふむ……さすがに良い成績だ………………な」

 途中までは、我が事のように嬉しそうに眺めていた和広だが、ある地点まで視線が行くと、そこで急に固まってしまった。

「あれ? 和広くん?」
「あーやっぱり……。さすがの和広でもダメみたいね」
「二人とも酷いよ〜。そんなに成績悪くないもん〜」

 天を仰ぐように呟く美佳と固まっている和広に、燐がぷくっと膨れて拗ねる。その中で、一人薫だけが"え? え?"と焦るばかりで事態を把握していなかった。

「誰も悪いなんて言ってないでしょうが。そうじゃなくて……私らが固まったのは、あんたの必修選択実地単位よ!」
「必修選択実地単位……? それがぁどうかしたの〜?」

 あくまでのほほ〜んとした雰囲気を崩さない燐に、美佳はこめかみをぴくつかせている。

「あ〜の〜ね〜。一単位も取ってないってどーゆーことよ!? たった6単位よ!? 3回も実地やれば取れるのよ!?」

 ちなみに、必修選択実地単位とは、簡単な魔獣退治や調査などを行った際に認められる単位のことだ。いつやるのかは完全に自由で、その際の欠席は公欠にカウントされる。
 また、提示された中からであれば、どのミッションを選ぶかは各個人の自由だ。一人で行くことが義務づけられているものだが、その難度はかなり低い。
 そのため、実地ながらこの単位は取り易いことで有名なのである。

「必修選択実地単位? それって、僕もきちんと取ってるんだけど……」
「ほらみなさい! 薫だって取ってるのよ? それなのに……」
「美佳……その言い方はちょっと酷いと思う」

 かなりの暴言を吐かれた薫が顔を引きつらせるが、美佳はお構いなしだ。燐に更に言葉を浴びせかける。

「あんたの実力だったら、この程度の実地、すぐに終わるでしょうが! それなのになーんで取らないかねぇ〜この子は」

 かなりヒートアップしてきたのか、燐の両頬をつまみ、にょい〜んと延ばし始めた。

「みゃはひゃん〜ひひゃいひょ〜」
「鴻……」
「は……っ」

 和広の零下を遥かに凌ぐ冷たい声で、美佳は意識を戻した。そして、反射的に燐の頬から指が外れた。

「いひゃい……」

 涙を浮かべながら、燐は赤くなった頬をさすった。

「しかし、俺としても今回ばかりは鴻を一方的には責めれられないな。燐だったら、間違いなく取っているとばかり思っていたからな」

 さすがの和広の言葉にも溜息が混じる。それに対し、燐はなぜか照れたような笑みを浮かべた。

「えへへぇ〜」
『誰も誉めてない』

 そして、一斉に突っ込まれた。

「まぁ、いいや。和広、頑張ってね。私は今年はごめんだから」
「……いったい、なんの話してるんだ?」

 ひらひらと手を振る美佳に、和広が眉をひそめて聞く。

「あ、知らないのか。必修選択実地単位の足りない生徒って、夏休みに補習があるのよ。で、それがだいたい二人一組なのよ。しかも、厄介なことに、単位足りてても問題無いのよねぇ参加。その上、その実地ってのが……まぁ、これはそのうち分かると思うわよ」
「おい……それってひょっとして」
「えへへへ〜」

 燐が、嬉しそうに和広の服の裾を掴んできた。

「…………」

 無言で燐を見る和広。燐は、にこにこと極上の笑顔を浮かべている。

「…………分かったよ」

 その笑顔に逆らうことも出来ず、和広は補習を一緒に受けることに同意してしまった。

「あーあ、しーらないっと」

 ふと聞こえてきた美佳の声が、心底から不安をかき立て仕方がなかった。



「夏休みが始まって約2週間。……週6日、一日10時間の労働…………これがあと1週間半続くのか。……確かに昼食付き、夜食補助ありで時給も悪くなくて6単位。更に言うなら、ほとんどが監視員だから危険もなくて楽は楽だが……よりにもよってこんなのを選ばないでもいいだろうに。夏休み明けには序列戦の本戦があるってのに、ほとんど訓練できないぞ……」

 プールの入り口で燐を待ちながら、和広はぶつぶつと愚痴っていた。
 一般レベルの生徒から見ればそれなりに悪くない条件だろうが、和広にとっては悪魔のような条件だ。
 特に、単位取得のための条件が、最悪だった。9割以上の出勤率で、なおかつ欠勤も特別な理由だと学園からの通知がなければ認められず、無断欠席があった時点で、単位取得は連帯責任でない、という条件がついているのだ。ちなみに、序列戦は特別な理由に含まない、と事前通知が来ている。
 その条件を聞いたときには、すでに他の項目は埋まっており、取り消し交換が利かない状態で、受け入れるしかなかったというわけだ。
 序列戦の本戦出場権を手に入れたライバル達は、大半が毎日のように訓練に明け暮れているのだろう。そう考えると、和広の中にも焦りが膨らんでくる。夏休みのほとんどをプールの監視員に費やしておいて勝ち進めるほど、本戦は甘くないのだ。
 それは燐も重々理解しているはずであるのだが……。

「か〜ず〜く〜ん〜」

 だが、その燐は間延びした声を出しながら、ぱたぱたと嬉しそうに走ってくる。序列戦のことなど、全くもって何にも考えていないような雰囲気だ。

「おまたせぇ〜」
「いや、大丈夫だ」

 そう言って、二人は並んで歩き出した。
 日が沈んだとは言え、まだまだ夏真っ盛りの夜は暑い。しかし、時折吹く風が、火照った肌には気持ちよかった。

「今日もぉ〜大変だったねぇ〜」

 ん〜〜〜〜〜、と常人の数倍はゆっくりと燐が伸びる。

「今日も……まぁ、確かにそうか」

 実際には、一日の労働量などたかが知れていて、疲れるのは毎日働いているために疲労と心労が蓄積されているだけのことなのだが。

「そういやぁ、明日は休みか……訓練するかなぁ」
「え〜〜ぇ? お休みなんだしぃ遊ぼぅよぉ〜」

 燐が、ぷう〜っと頬を膨らませて反論した。

「あのなぁ〜……序列戦まで時間がないんだぞ? こんななまった体で参加したら一瞬でなます切りだぞ!?」
「ん〜〜? だぁいじょうぶだよぉ〜」
「どーゆー根拠だ」

 脳天気な笑顔を浮かべる燐に、和広はげんなりと言った。

「でもぉ〜序列戦は大事だけどぉ〜わたしはぁ和くんと遊びたいなぁ〜。この時期にしかぁ〜行けないところとかたくさんあるんだもん〜。和くんと色々と見たいしぃ楽しみたいなぁ」
「そんなの、来年だって良いだろうが……燐がきちんと単位さえ取っておけば、行けるだろ」
「……でもぉ、来年が本当に来るのかなぁ?」
「……へ?」
「わたし達って〜いつ死んでもおかしくないんだもん〜」

 その言葉に、和広は二の句が継げなかった。確かに、燐の言うとおり、いつ死んでもおかしくないのだ。実力があっても、常に死と隣り合わせにある環境にいるのである。

「……あんまり簡単に、そんなこと言うな」

 死を恐れていれば学園の生徒などやっていられない。そして、死を常に頭に入れておけば、簡単に死に飲まれてしまう。
 だが、死を意識しない人間は、生き残ることなど出来はしない。
 和広のたしなめは、そういう意味で見れば正しい言い方だが……燐の言葉は、あまりに重い。和広のたしなめに、力はなかった。

「死んじゃうときはぁどんな人でも死んじゃう……。訓練してもぉそれは変わらないよ〜。だからぁわたしは和くんとぉできる内に〜たくさんの思い出が欲しいよ〜」

 聞きようによっては、生きようと足掻く意志がないようにも聞こえる。しかし、その言葉に含まれている意味は全く違う。
 死を間近なものと捉え、幾度も目の当たりにしているからこそ出てくる言葉だ。燐の言葉には、確かなほどにその雰囲気があった。
 それは、和広にも痛いほど理解できる。今まで、死にかけたことは一度や二度では済まないからこそ、燐の言葉の意味もきちんと理解できるのだ。

「理屈は通っているからこそ時として厄介極まりない……か」
「え?」
「俺がガキの頃に親父から言われた言葉さ。ったく……俺に影響を与えるヤツってのは、なんでこうも人の気勢を削ぐようなことしか言わんのかな」
「よく分からないけどぉ〜……それってぇバカにしてるぅ〜?」

 苦笑する和広に、燐が拗ねた口調で尋ねた。

「バカになんかしてないさ。ま、誉めてないのも確かだがな。俺にとって、お前が重要な人間だって事だ。で、明日はどこに行く?」
「ほえ?」

 和広の言葉に、燐がぽかんとする。その様子に、和広は苦笑の色を更に濃くした。

「おいおい、お前が遊びに行きたいって言ったんだろうが」
「あ、うん〜。えーっとねぇ〜……」

 ぱぁっと笑顔を浮かべ、幼子のようにワクワクとした雰囲気でどこへ行きたいかを考える燐。
 そんな燐を見て、和広は燐の言葉と、二人で過ごす時間の大切さを改めて実感していた。

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