ふと、気が付いた。 「………………ろ」 だが、それが何だというのだろう? この主張に比べれば、些細なことだ。まずは、こちらを解決しなければならない。 ふに…… と、揺さぶりが突如として失せ、次いで何やら妙な感覚が起こった。 ふにふにふに…… それは、不愉快ではない感覚だった。しかし、ずいぶんとこそばゆい。 ふにふにふにふに……
「きゃぁっ!?」 がばっと起きあがり、胸元を抱える。 「起きたか……」 直後、男の声がする。視線を向けてみれば、そこには見知った顔。間違えるはずのない林 和広が、呆れた表情を顔一杯に広げて佇んでいた。 「全く……昼休みだって」 和広の言葉を遮って、燐がそんなことを言った。驚いて、思わずうわずった声を上げてしまう和広。当然、何のことだかは分かっていない。 「い、いくらなんでも寝ているところをなんて……。た、確かに付き合ってるけど……あっ、でも、嫌ってわけじゃなくて……きちんと、その……」 急に頬を赤く染めたかと思うと、俯いてぶつぶつと言っている燐。 「ほらね? 言ったとおりでしょ? 燐は胸、弱いからねぇ〜。責めるんなら、ここだよ?」 そして、むふふという奇妙な笑い声と共に、鴻 美佳が心底から楽しそうに燐の背後からそんな発言をした。 「……多少問題があるが、効果的なのは分かった。それと、そう言うオヤジ発言は、お前も仮にも女なんだから、慎め。あと、鴻、頼むからこの早とちりをなんとかしてくれ」 そう、燐が大声を上げてしまったため、燐の机に視線が集中しているのだ。もちろん、その視線は燐と和広を往復している。 「でもぉ……」 なおも言い募ろうとした美佳に、鋭い視線と物騒な台詞が突き刺さる。和広の言葉は、冗談でもシャレでも脅しでもない。やると言ったら本気で美佳に大恥をかかすくらいはするだろう。……どういう幻覚を見せるか、とかどういう風に恥をかかせるか、とかいったのは些細な問題に過ぎない。 「うっ……分かったわよ」 拗ねたように唇を尖らせながらも、渋々と了承する。 「燐〜?」 名前を呼びつつ、トントンと肩を叩く。 「はえっ?」 こちら(現実世界)に戻ってきた燐が、ふっと首を巡らす。 ぷに…… 『……』 教室中が、一斉に沈黙する。 「あっははははははははははははははははっ!!」 沈黙を破ったのは、美佳の大爆笑の声だった。ご丁寧に、床を転げ回っている。かなりツボに入ったらしい。美佳の声に隠れているが、教室のあちこちでもこらえきれなかったのであろう、笑い声が漏れている。 「うぅ…………」 これには、燐も耐えられなかったらしい。さっきとは別の意味で顔を真っ赤にしつつ、俯いて震えている。恐らく、両目には涙が浮かんでいるだろう。 「……空の理を以て 風を紡がん。『空壁衝撃流(くうへきしょうげきりゅう)』」 和広から発せられた気は、和広の口より紡がれた呪に込められし『意』に則ってその形を変える。呪に込められた意は、すなわち『空気を以て壁となし、衝撃となって流れること』。 グオォッ!! 風が猛威を振るった。教室にいたほとんどの人間が、無防備のまま全身に衝撃を受ける。そして、その衝撃に弾かれて教室の端へと吹き飛ばされた。 「か、和広……あんた、やりすぎだって……」 若干の内の一名かつ、事の元凶が抗議の声を上げた。しかし、それも弱々しい。 「……これでも手加減はしたぞ?」 「か、和くん……そう言う問題じゃぁないと思う〜」 風に打たれなかった生徒は、当然ながら燐と和広のみ。燐は、あまりの惨事に自らに起こっていたことも忘れてしまっていた。 「ただ単にからかわれているだけなら見逃しもするが、その結果として燐が泣くのだったら、俺は見逃すつもりはない」 ぴしゃりと、まるで宣言をするように言い放つ。 (わ、忘れてた……。こいつが、こういう奴だって……) 和広は、普段おとなしいだけにキれると厄介なタイプなのだ。しかも、その中でももっとも厄介なタイプで、冷静な思考力をもちつつキれるのだ。 「だ、だからって、いきなり攻撃魔法ブッ放すんじゃないわよ! 悪気があったわけじゃないんだからっ!」 逆ギレと言っていいかどうかは分からないが……声を荒らげる美佳に冷たく言い放つ。 「そう言う問題じゃないでしょうが! あんたの実力が桁が違うの分かってる!? だいたいねぇ」 美佳の言葉を遮って、ほとんど泣きながら燐が仲裁に入る。燐にとってはどちらも大切な人間。やはり、仲違いはして欲しくない……特に、自分のことでは。 「お願いだからやめてぇ〜〜」 ぼろぼろと涙を流しながら哀願する燐。そこには、どこか浮き世離れしつつものんびりとした、だけど内心はしっかりとした少女でななく、一介のか弱い女の子がいるだけだった。 「燐……、ほら、しっかりしろ。とりあえず、外に出よう、な?」 これには、さすがの和広も美佳もケンカどころではない。一気に怒りは収まってしまった。 「うん……」 まるで幼女のように燐はこくりと頷くと、和広に支えられて立ち上がる。そして、どこかふらふらとした足取りで和広と共に教室を出ていった。
夕焼けが、横顔をオレンジ色に染めている。 「……入ってきたらどうだ?」 驚くでもなく、歓迎するでもなく― ただ、状況に適しているであろうと思われる言葉を言っただけ。そんな様子がありありと分かるような声色で言った。 「気付いてたんだ?」 数瞬の後、ゆっくりとドアが開かれ、美佳が入ってきた。 「ああ。そろそろ来る頃だろうと思ってたしな」 事も無げに言い放つ。 「ちょっと、出ない? ここじゃ、なんだしさ」 美佳の言葉にも、まるで予期していたかのように答え、立ち上がった。そこで、初めて美佳の方へと視線が投じられる。表情は、冷静沈着。そして、全身から醸し出されている、年に似合わぬ落ち着いた雰囲気。そこまではいつも通り。 「じゃ、中庭にでも行きましょ」 そう言って、美佳はきびすを返した。まるで、その瞳から目を逸らすように。 ・・ ・ 中庭は、閑散としていた。もともと、人が寄りつく場所ではない。せいぜい、暖かい季節の昼休み程度のものだ。しかも、今日は暖かい方だと言ってもすでに日はオレンジに輝いており、暖かさを与えてくるものではなくなっている。 「私……あんな燐、初めて見た」 備え付けのベンチに腰を下ろし、唐突に話し始めた。和広は、そばに立ったまま黙って耳を傾けている。 「びっくりして……どうしたらいいのか分からなかった。私が見てきた燐と、あんまりにもかけ離れてて……。あんたは、知ってたみたいだね」 ほとんど無感情に紡がれる言葉。意図的か、それとも無意識か― どちらかは分からない。そして、最後の一言に、わずかながら嫉妬の色が含まれていたことに気付いたのは、本人だけだっただろうか。 「……一度だけ、ケンカしたことがあったろ? その時に、燐から相談を受けてな」 高校1年の夏を少し過ぎた頃だった。本当に些細なことから、今ではもう思い出せないくらい些細なことから、美佳と燐は断絶とも言って良いような仲違いをしてしまった。 「ホント、びっくりしたわよ。仲直りして、2週間くらいだったかな? クラスメートだからって言っても、全く私が知らない男を、いきなり彼氏だって紹介して来るんだから」 その時のことを思い出して、美佳はわずかに笑みを浮かべた。真っ赤になって紹介してくる燐と、ぶすっとした冷徹漢― 美佳の第一印象だ。しばらくして、これが照れているのだと分かった― のあまりのギャップに、なにか悪い冗談じゃないかと思ったほどだった。 「私は……あの子の親友だと思ってた。なんでも相談できる、相談される― ありきたりだけど、心の底から分かり合える、そんな絵に描いたような親友。大人になっても、子供が出来ても、きっとこの関係を続けていく― そんな風に思ってた。 ただひたすらに、無感情を押し通す。それは、あまりに辛い現実を、まるで否定しているかのようだった。 「お前とまともに話をするようになって、確か半年と少しだったな。その前は、よく、うちのクラスに来ては馬鹿騒ぎして……いい迷惑だと思ったもんだ。けどな、ふと気付いたんだ。お前がいるときの燐といないときの燐、同じ笑っているんでも、随分と印象が違うって。その時は、ただ単に親友がいないからだろうと思ったんだが…………。 「えっ……?」 その言葉に、戸惑った声を上げる美佳だが、和広はそれに構わず言葉を続けた。 「思い当たる節はあるだろ? あいつは、そんな自分をひた隠しにしていたんだよ。たぶん……世の中の汚い部分をどこかで見たんだろうな。あいつの心は、それに耐えられなかった。そして、もう一つの自分を作り上げ、暮らしていた。お前は、無意識に、それでいて確かにあいつのそんな純粋な部分と触れ合っていたんだよ。だから、あいつにとってお前はある意味、自分がいることの証明なんだ」 心の内に溜まった何かを吐き出すように、美佳は叫んだ。こらえていたものが、堰を切ったように言葉となって溢れてくる。 「いつも、いつもそうだった! あの子は、絶対に私に本心を見せてはくれなかった! 証明だったら、そんな風に思ってくれてるなら、なんで本音でぶつかってくれないのよ!?」 震えるように、すがるように、美佳は言った。まるで、それはここにいない誰かに問い掛けているかのようだ。 「そうだな。『親友』も『恋人』も万能じゃない。どちらかにしか出来ない役割ってものがある」 和広の言葉を噛みしめるように頷き、数瞬だけ沈黙した。そして、空を仰ぎ見て、ぽつりと呟く。 「さぁな。そればっかりはわからん。ただ、いつものお前達を見てると……たぶん、もう答えは出てると思うぞ?」 ふぅ、と息を吐き出し、「ほっ」と小さくかけ声をかけてベンチから飛び上がるようにして腰を上げる。 「ねぼすけを起こして、とっとと帰ろっ!」 そう言って、校舎へ入るドアへと歩いていく。 「……時々、俺の知らないお前達の2年半が恨めしく思えるよ」 ぽつりとそう呟き、和広も後に続いた。 〜余談〜 「あっ、ねぇ、そう言えば、和くん?」 「ん?」 帰り道、思い出したように燐が切り出した。 「あの、教室で、その、む、胸、触ったの、どうして……」 最後の方になるにつれてどんどん声が小さくなっていく。聞き取れたのは、「教室で」までだけだ。 「……鴻が、燐を起こすならこっちの方が効果的だとか言って、やったんだ」 そう、意識は不明瞭だったが、じっくりと考えてみれば、和広の声だった。これだけは、間違いない。 「……それは、肩を揺さぶっているときだ」 大きく口を「あ」の字に開けたまま硬直する燐。 そう、和広は、確かに机を挟んで燐の真正面にいたのだ。燐が起きたときにあの行動が出来たのは、背後にいた美佳なのだ。 「美佳ちゃん〜?」 忍び足で立ち去ろうとしていた美佳に、冷たい声を向ける燐。明らかに、怒っている。 「あ、あはは……ま、まぁ、そう言うこともあるかなぁ? ってことで……って、やっぱダメ?」 にっこりと天使のような笑みを浮かべて優しい声の燐だが……目は明らかに怒りの灯をともしている。 「あ、じゃあ、また明日ねぇ〜」 そう言って、一目散に駆け出す美佳。 「待〜ち〜な〜さ〜い〜!」 それを追いかける燐。 「やれやれ……平和で良いな」 一人蚊帳の外だが、それでも幸せそうな和広だった。 |