ふと、気が付いた。


ゆさゆさゆさ……


 揺さぶられている。視界の利かない暗がりの中にいても、それははっきりと分かった。しかし、それが何を意味するものなのか― 混濁とした意識では、判別を付けることは難しかった。
 揺れは続く。
 まるで、その意味に気づけ、と命令しているような、こちらの意志を全く無視した主張。
 ゆっくりと、その意味を考え始めた。するとどうだろう、どこからか流れてくる音が聞こえるようになった。

「………………ろ」

だが、それが何だというのだろう? この主張に比べれば、些細なことだ。まずは、こちらを解決しなければならない。
 再び、意識を思考に回した。


ふに……


と、揺さぶりが突如として失せ、次いで何やら妙な感覚が起こった。


ふにふにふに……


それは、不愉快ではない感覚だった。しかし、ずいぶんとこそばゆい。


ふにふにふにふに……


 まだ、続いている。その感覚は、どうやら胸元から発せられているようだ。

 ふと、その感覚の正体に気付いた。急速に意識が覚醒する。

「きゃぁっ!?」

がばっと起きあがり、胸元を抱える。

「起きたか……」

直後、男の声がする。視線を向けてみれば、そこには見知った顔。間違えるはずのない林 和広が、呆れた表情を顔一杯に広げて佇んでいた。

「全く……昼休みだって」
「和くん、酷いよ……」
「はぁ!?」

和広の言葉を遮って、燐がそんなことを言った。驚いて、思わずうわずった声を上げてしまう和広。当然、何のことだかは分かっていない。

「い、いくらなんでも寝ているところをなんて……。た、確かに付き合ってるけど……あっ、でも、嫌ってわけじゃなくて……きちんと、その……」

急に頬を赤く染めたかと思うと、俯いてぶつぶつと言っている燐。

「ほらね? 言ったとおりでしょ? 燐は胸、弱いからねぇ〜。責めるんなら、ここだよ?」

そして、むふふという奇妙な笑い声と共に、鴻 美佳が心底から楽しそうに燐の背後からそんな発言をした。

「……多少問題があるが、効果的なのは分かった。それと、そう言うオヤジ発言は、お前も仮にも女なんだから、慎め。あと、鴻、頼むからこの早とちりをなんとかしてくれ」
「えぇ!? なんでぇ? このままの方がおもしろいのにぃ〜」
「面白いのは認めるが……目立ってしょうがない」

そう、燐が大声を上げてしまったため、燐の机に視線が集中しているのだ。もちろん、その視線は燐と和広を往復している。

「でもぉ……」
「幻覚でもかけて大恥をかいてもらっても俺は構わないんだぞ?」

なおも言い募ろうとした美佳に、鋭い視線と物騒な台詞が突き刺さる。和広の言葉は、冗談でもシャレでも脅しでもない。やると言ったら本気で美佳に大恥をかかすくらいはするだろう。……どういう幻覚を見せるか、とかどういう風に恥をかかせるか、とかいったのは些細な問題に過ぎない。
 過去に、些細なもめ事から上級生が和広に突っかかってくるようになり、それが燐にまで及ぶようになったことがある。その時に、和広はその上級生に大恥― いや、すでにあそこまでいくと生き恥と言った方が良いくらいだろう― をかかせたことがある。しかも、容赦はまるでなし。その上級生は、75日間、休学したという話だ。

「うっ……分かったわよ」

拗ねたように唇を尖らせながらも、渋々と了承する。

「燐〜?」

名前を呼びつつ、トントンと肩を叩く。

「はえっ?」

こちら(現実世界)に戻ってきた燐が、ふっと首を巡らす。

ぷに……

『……』

教室中が、一斉に沈黙する。

「あっははははははははははははははははっ!!」

沈黙を破ったのは、美佳の大爆笑の声だった。ご丁寧に、床を転げ回っている。かなりツボに入ったらしい。美佳の声に隠れているが、教室のあちこちでもこらえきれなかったのであろう、笑い声が漏れている。

「うぅ…………」

これには、燐も耐えられなかったらしい。さっきとは別の意味で顔を真っ赤にしつつ、俯いて震えている。恐らく、両目には涙が浮かんでいるだろう。

「……空の理を以て 風を紡がん。『空壁衝撃流(くうへきしょうげきりゅう)』」

和広から発せられた気は、和広の口より紡がれた呪に込められし『意』に則ってその形を変える。呪に込められた意は、すなわち『空気を以て壁となし、衝撃となって流れること』。


グオォッ!!


風が猛威を振るった。教室にいたほとんどの人間が、無防備のまま全身に衝撃を受ける。そして、その衝撃に弾かれて教室の端へと吹き飛ばされた。
 風は一瞬だが、衝撃は2度。しかも、無防備のまま前後から来るダブルインパクト。ほとんどの生徒が、気絶もしくはそれに近い状態で動くことさえままならない。若干の者は、なんとか動くことが出来るようだが、それでもダメージは免れない。意識をしっかり保とうと努力するのが精一杯のようだ。

「か、和広……あんた、やりすぎだって……」

若干の内の一名かつ、事の元凶が抗議の声を上げた。しかし、それも弱々しい。

「……これでも手加減はしたぞ?」

「か、和くん……そう言う問題じゃぁないと思う〜」

風に打たれなかった生徒は、当然ながら燐と和広のみ。燐は、あまりの惨事に自らに起こっていたことも忘れてしまっていた。

「ただ単にからかわれているだけなら見逃しもするが、その結果として燐が泣くのだったら、俺は見逃すつもりはない」

ぴしゃりと、まるで宣言をするように言い放つ。

(わ、忘れてた……。こいつが、こういう奴だって……)

和広は、普段おとなしいだけにキれると厄介なタイプなのだ。しかも、その中でももっとも厄介なタイプで、冷静な思考力をもちつつキれるのだ。

「だ、だからって、いきなり攻撃魔法ブッ放すんじゃないわよ! 悪気があったわけじゃないんだからっ!」
「分かってる。だから、手加減はした」

逆ギレと言っていいかどうかは分からないが……声を荒らげる美佳に冷たく言い放つ。
 そう、そして、さらに厄介な要素となっているのが、和広の実力が魔法のみの戦闘ならば学園でも一・二を争うというところだ。彼に言わせれば、トップレベルの実力者ばかりを集めた学園の一クラスのほとんどの生徒を、油断していたとは言え戦闘不能にさせてしまうくらいでも手加減の範疇なのだ。

「そう言う問題じゃないでしょうが! あんたの実力が桁が違うの分かってる!? だいたいねぇ」
「も、もういいからぁ〜。燐ちゃんは平気だからケンカしないでぇ〜」

美佳の言葉を遮って、ほとんど泣きながら燐が仲裁に入る。燐にとってはどちらも大切な人間。やはり、仲違いはして欲しくない……特に、自分のことでは。

「お願いだからやめてぇ〜〜」

ぼろぼろと涙を流しながら哀願する燐。そこには、どこか浮き世離れしつつものんびりとした、だけど内心はしっかりとした少女でななく、一介のか弱い女の子がいるだけだった。

「燐……、ほら、しっかりしろ。とりあえず、外に出よう、な?」

これには、さすがの和広も美佳もケンカどころではない。一気に怒りは収まってしまった。

「うん……」

まるで幼女のように燐はこくりと頷くと、和広に支えられて立ち上がる。そして、どこかふらふらとした足取りで和広と共に教室を出ていった。
 後には、手を突きだした姿勢のまま呆然としている美佳と、収束しきっていない惨事だけが残っていた。

夕焼けが、横顔をオレンジ色に染めている。
 カーテンが張られているとは言っても、目の隙間から漏れてくる光までは遮れない。しかし、それでも寝苦しそうな様子ではなく、燐はあどけない寝顔を見せていた。
 その様は、さながら母親の腕の中にいる幼子のようだ。それは、そばにいる人間が男であっても変わらない。本人が、いかに心を許せるか、それが問題なのだ。

「……入ってきたらどうだ?」

驚くでもなく、歓迎するでもなく― ただ、状況に適しているであろうと思われる言葉を言っただけ。そんな様子がありありと分かるような声色で言った。

「気付いてたんだ?」

数瞬の後、ゆっくりとドアが開かれ、美佳が入ってきた。
 後ろ手に、ゆっくりとドアを閉め、言葉の割に驚いていない様子で保健室の中程へと足を踏み入れてきた。

「ああ。そろそろ来る頃だろうと思ってたしな」
「そっか。でも、授業平気だったの?」
「燐のことに比べれば、安いもんだ」

事も無げに言い放つ。
 そんなやりとりをしつつも、ベッドに腰掛けたままの和広の視線は燐から一瞬たりとも外れない。ひょっとしたら、昼休みからずっとこうしていたのかもしれない。

「ちょっと、出ない? ここじゃ、なんだしさ」
「分かった」

美佳の言葉にも、まるで予期していたかのように答え、立ち上がった。そこで、初めて美佳の方へと視線が投じられる。表情は、冷静沈着。そして、全身から醸し出されている、年に似合わぬ落ち着いた雰囲気。そこまではいつも通り。
 だが、その瞳だけは違った。いつ見ても、瞳だけは穏やかだった。いっそ、優しさと置き換えることもできるかもしれない。そんな輝きだった。
 けれど、今は、冷たいような― 熱いような― 不思議な輝きだった。過去に、美佳はこれと同じ瞳の輝きを見たことがある。しかし、それは……。

「じゃ、中庭にでも行きましょ」

そう言って、美佳はきびすを返した。まるで、その瞳から目を逸らすように。









中庭は、閑散としていた。もともと、人が寄りつく場所ではない。せいぜい、暖かい季節の昼休み程度のものだ。しかも、今日は暖かい方だと言ってもすでに日はオレンジに輝いており、暖かさを与えてくるものではなくなっている。

「私……あんな燐、初めて見た」

備え付けのベンチに腰を下ろし、唐突に話し始めた。和広は、そばに立ったまま黙って耳を傾けている。

「びっくりして……どうしたらいいのか分からなかった。私が見てきた燐と、あんまりにもかけ離れてて……。あんたは、知ってたみたいだね」

ほとんど無感情に紡がれる言葉。意図的か、それとも無意識か― どちらかは分からない。そして、最後の一言に、わずかながら嫉妬の色が含まれていたことに気付いたのは、本人だけだっただろうか。

「……一度だけ、ケンカしたことがあったろ? その時に、燐から相談を受けてな」
「ああ、そう言えば、その後だったっけ。あんた達が付き合いだしたのって」

高校1年の夏を少し過ぎた頃だった。本当に些細なことから、今ではもう思い出せないくらい些細なことから、美佳と燐は断絶とも言って良いような仲違いをしてしまった。
 その間、燐がどうしていたのか、それは美佳には分からない。けれども、その頃から二人が付き合いだしたことと、今の言葉で、だいたいのことは分かった。

「ホント、びっくりしたわよ。仲直りして、2週間くらいだったかな? クラスメートだからって言っても、全く私が知らない男を、いきなり彼氏だって紹介して来るんだから」

その時のことを思い出して、美佳はわずかに笑みを浮かべた。真っ赤になって紹介してくる燐と、ぶすっとした冷徹漢― 美佳の第一印象だ。しばらくして、これが照れているのだと分かった― のあまりのギャップに、なにか悪い冗談じゃないかと思ったほどだった。

「私は……あの子の親友だと思ってた。なんでも相談できる、相談される― ありきたりだけど、心の底から分かり合える、そんな絵に描いたような親友。大人になっても、子供が出来ても、きっとこの関係を続けていく― そんな風に思ってた。
 でも、やっぱり、『親友』は恋人には敵わないんだね。燐は、私に弱いところは見せてくれても、心の弱点までは見せてくれなかった」

ただひたすらに、無感情を押し通す。それは、あまりに辛い現実を、まるで否定しているかのようだった。
 そして、同時に、これ以上ないくらい残酷な現実を受け入れたかのようにも取れる。

「お前とまともに話をするようになって、確か半年と少しだったな。その前は、よく、うちのクラスに来ては馬鹿騒ぎして……いい迷惑だと思ったもんだ。けどな、ふと気付いたんだ。お前がいるときの燐といないときの燐、同じ笑っているんでも、随分と印象が違うって。その時は、ただ単に親友がいないからだろうと思ったんだが…………。
 お前が風邪で休んだとき、あいつは随分と落ち込んでた。周りは気付いてないみたいだったがな。表面を取り繕いながら、心は誰かのところへ向いている― これが、『ただ』の親友に向けられる想いなのか? そんなことをふと思ったんだ。その瞬間から、少し興味が沸いてな、その日の掃除当番を代わってやったんだよ。そうしたら、大喜びで帰っていったよ。翌日、ずいぶんと丁寧な礼を言われた。
 それで、少しずつ話すようになって……しばらくして、お前達のケンカ騒ぎが起きた。その時の取り乱しようと言ったらなかったよ。そこで、思ったのさ。あいつは、つまるところ、心は純粋な子供なんだって」

「えっ……?」

その言葉に、戸惑った声を上げる美佳だが、和広はそれに構わず言葉を続けた。

「思い当たる節はあるだろ? あいつは、そんな自分をひた隠しにしていたんだよ。たぶん……世の中の汚い部分をどこかで見たんだろうな。あいつの心は、それに耐えられなかった。そして、もう一つの自分を作り上げ、暮らしていた。お前は、無意識に、それでいて確かにあいつのそんな純粋な部分と触れ合っていたんだよ。だから、あいつにとってお前はある意味、自分がいることの証明なんだ」
「だったら……だったら、見せてくれても良いじゃない!」

心の内に溜まった何かを吐き出すように、美佳は叫んだ。こらえていたものが、堰を切ったように言葉となって溢れてくる。

「いつも、いつもそうだった! あの子は、絶対に私に本心を見せてはくれなかった! 証明だったら、そんな風に思ってくれてるなら、なんで本音でぶつかってくれないのよ!?」
「言っただろう? それは、あいつが純粋だからさ。世の中の汚い部分を見て、人に絶望して― だからこそ、恐かったんだ。せっかく出会えた、自分を見つけてくれた存在が離れていくことが。同姓だからこそ、なんでも話せる― そんな存在だからこそ、あいつは失うのを恐れて話せなかったんだ」
「そんなのって……」
「俺は、確かに燐のそんな部分を見つけられた。たぶん、位置的にはお前と同じ場所に立った。だからこそか、燐は俺にも見せなかったよ。自分のそう言う部分は。けれど、お前とのケンカになって……結局、俺しかいなかったんだろう。その時は、まだ燐についてほとんど知らなかったから、切り捨てても大丈夫だと思ったんだろう、無意識にな」
「親友だから……大切だから、隠したい部分もあるって事?」

震えるように、すがるように、美佳は言った。まるで、それはここにいない誰かに問い掛けているかのようだ。

「そうだな。『親友』も『恋人』も万能じゃない。どちらかにしか出来ない役割ってものがある」
「あんたは……林 和広は?」
「俺か……。俺は、燐がこれ以上、辛い想いをしないように守ることだ。『俺はお前のそばにいる』― そう行動して、あいつを安心させてやることだ。そうやってあいつの心を守って、いつか、あいつが本当の自分で笑えるように」
「そっか…………。私……鴻 美佳の役目はなんなんだろう?」

和広の言葉を噛みしめるように頷き、数瞬だけ沈黙した。そして、空を仰ぎ見て、ぽつりと呟く。

「さぁな。そればっかりはわからん。ただ、いつものお前達を見てると……たぶん、もう答えは出てると思うぞ?」
「……そっか」

ふぅ、と息を吐き出し、「ほっ」と小さくかけ声をかけてベンチから飛び上がるようにして腰を上げる。

「ねぼすけを起こして、とっとと帰ろっ!」

そう言って、校舎へ入るドアへと歩いていく。

「……時々、俺の知らないお前達の2年半が恨めしく思えるよ」

ぽつりとそう呟き、和広も後に続いた。


〜余談〜

「あっ、ねぇ、そう言えば、和くん?」

「ん?」

帰り道、思い出したように燐が切り出した。

「あの、教室で、その、む、胸、触ったの、どうして……」

最後の方になるにつれてどんどん声が小さくなっていく。聞き取れたのは、「教室で」までだけだ。
 しかし、その単語と夕焼けに照らされているだけではないであろう紅潮を見れば、何を言いたいのか想像はつく。

「……鴻が、燐を起こすならこっちの方が効果的だとか言って、やったんだ」
「えっ? でも、和くんの声が聞こえたよ?」

そう、意識は不明瞭だったが、じっくりと考えてみれば、和広の声だった。これだけは、間違いない。

「……それは、肩を揺さぶっているときだ」
「……え?」
「第一、俺はお前の目の前にいただろうが」
「…………あ」

大きく口を「あ」の字に開けたまま硬直する燐。

そう、和広は、確かに机を挟んで燐の真正面にいたのだ。燐が起きたときにあの行動が出来たのは、背後にいた美佳なのだ。

「美佳ちゃん〜?」
「ぎくり」

忍び足で立ち去ろうとしていた美佳に、冷たい声を向ける燐。明らかに、怒っている。

「あ、あはは……ま、まぁ、そう言うこともあるかなぁ? ってことで……って、やっぱダメ?」
「あれだけぇ〜私に恥ずかしい思いさせてぇ……言うことはそれだけ?」

にっこりと天使のような笑みを浮かべて優しい声の燐だが……目は明らかに怒りの灯をともしている。

「あ、じゃあ、また明日ねぇ〜」

そう言って、一目散に駆け出す美佳。

「待〜ち〜な〜さ〜い〜!」

それを追いかける燐。

「やれやれ……平和で良いな」

一人蚊帳の外だが、それでも幸せそうな和広だった。

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