春。暖かな日差しと鼻をくすぐる桜の花びらに、人々の心は嫌が応にも浮き足立つ。そして、それは学生にこそ、もっとも当てはまる事柄と言えよう。進級・進学に伴う期待や誇らしさなどは、格別なものがある。
 もっとも、それが当てはまらない学生もいる。
 主に受験生と言われる3年生群とごく一部の就職組。年度始めとは言え、全く頭にないという生徒は滅多にいないだろう。そう考えると、暖かな日差しや鼻をくすぐる桜の花びらを見ても心躍らぬのも無理からぬ話だ。彼らの心には、不安こそあれ、楽しみというものは少ないのだから。
 そして、もう一種、当てはまらない学生がいる。
 頭がいつも春うららな学生諸君だ。彼らには、春だからと言う特別な感慨はない。今日は暖かいなぁ、くらいでしかないだろう。
 そう言う人間が珍しい、というのは確かに通説だろう。だが、現にその類の人間がここにいるのだから、それを直視しないと言うのは現実逃避以外の何物でもないと言える。
 それは、腰近くまである髪を綺麗に三つ編みにした少女。何というか……「ふわふわ」という形容がぴったり― いや、それ以外に形容が出来ない歩き方で階段を上っている。その様子を見ていると、少しでも強い風が吹いてきたらそのまま吹き飛ばされてしまうのではないか、と心配したくなる。

「いい……風ぇ」

 少女の口から、幸福以外微塵も含んでいない様子の間延びした声が発せられた。
 確かに、階段には備え付けられた窓から、初春の匂いを含んだ穏やかな風が時折吹き抜ける。これだけ、少女がほわ〜としているのも無理からぬ事だろう。とは言っても、身につけた雰囲気というか気配というか……そう言ったものから、少女がたまたま春だからこうなっている、と言うわけではなさそうだと推測は付く。

「とう〜ちゃくぅ〜」

 最後の一段を、ひょいと飛ばしてみせる。表情を見れば、人類史上初の偉業をこなした、と言っても通じそうな満足と幸せで一杯の表情を浮かべている。
 なんというか……遺伝子レベルから平和な少女だ。

「り〜〜〜〜〜〜ん〜〜〜〜〜ッ!!」

 と、少女の背後から人名なのかかけ声なのか……とにかく、騒がし気な声が響いてきた。

地神龍咆弾!(ちじんりゅうほうだん)

どがんっ!

 少女がその単語に反応して振り返ろうとした瞬間、いやに勇ましい言葉と共に、周囲が震撼するほどの不吉な踏み込み音がした。
 と同時に、首がむち打ちになりそうな強烈な衝撃を背中全面に叩き込まれた。

ずがんっ!

べちゃっ!

 前の音に比べれば妙に腑抜けた音だが、それでも不吉な……もとい、痛そうな音であることには変わらない。見れば、少女は見事に地面と抱擁していた。ちなみに、少女の靴の位置は明らかに先ほどより1m以上前進している。

「おっはよ! 燐」

 それを気にしていないのか、それとも意図的に無視しているのか― 片手を上げてしゅぴっとポーズを取る、もう一人の少女。どうやら、彼女がこの騒動の犯人……らしいのだが、さっきの勇ましい声がこの少女から出たとはにわかに信じがたい。と言うのも、少女の容貌とあまりに不釣り合いだからだ。自分がやったことを可愛いイタズラ、としか認識していないような平然とした表情。人懐っこい、子犬のような無邪気な表情を兼ね備えたその顔は、妙に愛嬌がある。そして、同類というわけではないだろうが、なぜか頭に乗せている真っ白な子犬。これでは、錯覚と誤認しても責められまい。
 とは言っても、吹き飛ばされた少女とはまたべつの意味で浮き世離れしている少女だ。ある意味では、納得できるかもしれない。

「美佳ちゃ〜ん〜……いきなりタックルは酷いよぉ……」

 のっそりと、吹き飛ばされた少女が身を起こした。犬を乗せた少女― 鴻 美佳(おおとりみか)へと向き直り、ぺたんと座り込んだまま、恨めしげに上目遣いで見る。目尻には大粒の涙が浮かび、思いっきり廊下に打ち付けたであろう鼻を両手で押さえている。しかし、当たったときに鈍い衝突音がするほどの、強烈すぎる衝撃を叩き込まれてこの程度で済んでいるとは……どういう体の構造をしているのだろうか。

「あっはっは。ごめんごめん。ほら」

 そう言って、美佳は形だけの謝罪を述べ、少女に手を差し出した。
 少女はその手を右手で掴む。
 ひょいっと、少女を引っ張り起こす。いくら少女が小柄とは言え― 美佳も小柄だが― 人一人を軽々と起こしたのには、驚くに値する。だが、二人はそれを特別なことだとは思っていない様子だ。平然と会話を続けている。

「美佳ちゃん、格闘じゃないのにぃ、なんで格闘系の技かけてくるのぉ〜?」

 これでも、本人は非難を多分に含んでの質問― というか詰問のつもりだ。しかし、間延びしたその口調では、そうと感じるのはなかなか難しいものがある。恐らく、長年付き合った人間にしか分からないだろう。

「う〜ん、ほら、乙女(おとめ)のたしなみってやつよ。護身術護身術♪」

 しかし、この鴻 美佳という少女は仮にも親友であるのだから気付いているはずなのだが……そんな素振りは一切無い。

「…………漢女(をとめ)のたしなみ?」

 きょとんとした表情を浮かべる少女。そんな物騒な人類を創造しないでいただきたい。ちなみに、護身術だとしたら、勇ましいかけ声と共に地鳴りがするような強烈な踏み込みが必要な技はそもそも習わないだろう……護身術だとしたら、だが。

「そうそう、漢女の……って、そんな物騒な奴の仲間入りさせないでよ!」

ガスッ!

「痛い……」

 思いっきり眉間にチョップを入れられる少女。しかも、横薙ぎなので効果範囲が広い。痛くて当然……というか、そもそもそんなことをする『乙女』はいない。

「燐。こんなところにいたのか。探したぞ」

 渡り廊下側から、一人の男子生徒が歩いてきた。中肉中背で、ぱっと見た限りでは特に目だつ要素はないが……近くで見ると、その印象はガラッと変わる。顔立ちに理知的な輝きが備わっており、瞳には、何事にも動じない冷静さをたたえている。片手に持った分厚い本と相まって、冷静沈着な知識人、と言う印象を10人中9人が持つだろう。

「和くん〜。美佳ちゃんがいぢめるぅ〜」

 その男子生徒に、三つ編みの少女― 黒鞘燐(くろさや りん)が瞬時に反応した。しかもご丁寧なことに、駆け寄って背後に回り、袖をきゅっと可愛らしく掴んで覗くように美佳を見ている。……その行動速度たるや、さっきまでの鈍くさそうな印象とは天地ほどの差だ。それなり以上の付き合いがなければ判断しづらいところだが、表情と声の中に甘えの雰囲気が見て取れる。

「……ん? どうした? 鼻と眉間が赤いぞ?」

 そんな美佳の様子を見て、ふと少年が眉をひそめる。

「あぁ〜……これぇ? 美佳ちゃんがぁ」
「ああ、鴻に背後から地神龍咆弾でも喰らわせられて受け身も取らず鼻から地面に激突して、なんか言ったあげくに突っ込まれたか」

燐の言葉を途中で遮り、そう言い当てた。しかも、口調はごく平静。疑いの気配は一切含まれていない。

「和広、ちょっと! なによ、その断定的な口調は! 仮にも知識人を名乗るんだったら、もっとこう、少しは知的な推論を立てられないの!? って言うか、技の名前まではっきりと当ててるんじゃないわよ!」
「燐がこういう口調でお前のことをしゃべるときは、大抵が今みたいな内容だからな。それに、お前も燐も行動が読みやすい。第一、俺は自分を知識人だと言った覚えはない。知識人と言うなら、仲橋の方だ」

 非難するような美佳の言葉にもその鋭い視線にも動じた素振りを見せず、淡々と言葉を紡ぐ林 和広(はやし かずひろ)。ひょいと肩をすくめてみせるのは、彼なりに呆れか何かを表現したのかもしれない。……だが、技の名前まで当たるというのは、やはり、いつも同じ事をしていると言うことなのだろうか。
 ちなみに、仲橋とは、フルネームを仲橋 良(なかはし りょう)と言い、美佳のクラスメートだ。自他共に認める学園一の情報通で、彼の元にない情報は無いと言っても過言ではない。その、情報に裏付けされた知識と応用力は目を見張るものがある。メジャーな情報は言うに及ばず、その瞬間には知らないマイナーな情報でも、瞬時に調べ上げて次の瞬間には誰よりも詳しく知っているという話はいくつもあり、ほとんど伝説と化している。

「和くん…………それってぇ、ひょっとして、馬鹿にしてるぅ?」

 それはさておき。燐も美佳に続いて非難するように言う。もっとも、そう聞こえるのは台詞だけで、口調そのものはほとんど変わっていないので、なんとも言葉との釣り合いがアンバランスだ。

「別にそうは言ってない。ただ、事実をありのまま述べただけだ」
「うぅ……」

その台詞を聞き、燐が抗議の声を上げた。それと同時に、頬を膨らませている。……どうやら、今度は本気で拗ねているらしい。

「分かった分かった。そんなに拗ねるな」

 その様子を見て取った和広が、苦笑混じりに燐の頭を撫でる。
 瞬間的に、ぼっと音がしそうなくらいに燐の顔が朱に染まった。

「あんたら……相変わらず仲が良いのは結構だけど、ここが廊下だって事分かってやってる?」

 やってられない、と言いたげに首を左右に振る。確かに、端から見ていればバカップル以外の何物でもない。そばを通る生徒達が、だいたい2通りの表情を浮かべて過ぎていく。すなわち、微笑ましいとする笑顔か憎々しげで投げやりな表情か。

「あぁっ!? こんな所にいた! 探したよ、鴻さん。係りは召集かかってるって知ってるでしょ!?」

 と、やけに高い声が3人の耳に届いた。
 そちらの方へ視線を回すと、階段を駆け上がってくる男子生徒がいた。いかにも大多数に埋もれています、と全身で言っているような風体。あえて特徴を、と言われれば、百歩譲ってその大人びた雰囲気、と言うしかないだろう。しかし、知り合いは総じて言う。『ああ、あいつは受難者だから。たぶん、人生諦めてんじゃない?』と。

「……美佳ちゃんのぉ〜、お友達?」

小鳥のように小首を傾げ、燐が尋ねる。どうやら、燐の知り合いではないらしい。

「うーん……ちょっと違うかな?」
「うにぃ?」

 歯に物の挟まったような美佳の言い方に、妙な擬音で疑問をアピールする。
 と、一瞬にして燐の視界から美佳の姿が消失した。

「ぐぇっ!?」

 その直後、蛙を踏みつぶしたときのような奇妙な声があがった。しかも、それが比較的高い声で出ているため、妙に気持ち悪い。……と言うのも、先ほどやってきた男子生徒があげた声だからだ。

「なぁ〜んで〜きみは〜そういう〜風に〜呼ぶかなぁ〜?」

 続いて、消えたと思っていた美佳の声が聞こえてきた。愛らしい笑顔を満面に浮かべて、非常に柔らかい響きの声で質問しているが…………いかんせん、チョークスリーパーをかけながらでは、首を絞めるという行為を引き立てる以外のなにものにもならない。

「ぐがぐぇげぁ……」

しかも、ご丁寧に逐一、首を締める腕に強弱を付けている。

「わぁ。色がくるくる変わってるぅ〜」
「こらっ、そんなことで喜ぶな」

物騒な感想を漏らした燐をこつんと小突く。

「鴻、なにがどうなっているかはわからんが、それくらいにしておけ。そろそろ死ぬぞ」
「あ、そう?」

 そう言われ、あっさりと腕を解く美佳。
 それと同時に、どさりと倒れ込む男子生徒。かなりクラクラしているようだが、まだまだ意識はしっかりしているようだ。思った以上に、丈夫な体の造りをしているようだ。

「ところでぇ、その人ぉ〜、誰ぇ?」
「ああ、そっか。知らないんだっけ。ほらほら、そんなところでへばってないで自己紹介!」
「じ、自分でやっておいてよく言うよ……」

 恨めしそうな視線を美佳に向けつつ、男子生徒は立ち上がって居住まいを正す。

「えっと、初めまして。十翔 薫(とのとび かおる)です。林さんと黒鞘さんですよね。おおと……美佳からはよく話を聞いてます」
「薫〜〜、肝心の所は?」
「…………言うの?」
「もちろん」

やや躊躇いがちに尋ねた薫だったが、容赦ない一言に撃沈した。

「えっと……一応、美佳と付き合ってます」
「ほう……?」

和広が、驚いたような感心したような― 意味ありげな表情を浮かべた。

「…………あぁ〜。美佳ちゃんが言ってたぁ、新しいおむぐっ」
「だわぁ〜! ダメダメダメ!!」
「ふぃふぁふぁん〜ふわひぃふるほぉ〜(美佳ちゃん〜なにぃするのぉ〜)」

 何かに思い至ったらしい燐が言い切る前に、美佳の手が燐の口を塞いだ。先ほどまでの余裕たっぷりの表情はどこかへ消え、本気の焦りを浮かべている。どうやら、かなりまずい発言を燐はしようとしていたらしい。

「……美佳、いったい僕のことどういってるの?」

 それでも、ある程度内容は察しがいくらいく、薫は呆れ混じりに問い掛けた。

「えっ? あ、あはは〜。気にしないで〜」
「………………十翔だったな」
「あ、薫で良いです」

 呼び方を、即座に訂正する。

「じゃあ、俺のことも和広でいい。ついでに、さんはやめてくれ。まぁ、それは良いとして……とりあえず、がんばれよ」

 そう言って、和広はぽんと薫の肩に手を置いた。
 その言葉と行為には、かなりのいたわりが含まれている。そう理解できたのは、手を置いた本人と置かれた本人だけだろう。

「はは。まぁ、覚悟してましたから」

 そう言って、困ったような笑顔を浮かべる。どうやら、言葉の裏に隠されている真意を読みとったらしい。

『まだ、校内に残っている生徒は、大至急体育館に集合して下さい。繰り返します。まだ、校内に残っている生徒は、大至急体育館に集合して下さい。』

 放送が校内中に鳴り響いた。

『もうすぐ、校内に毒ガスが撒かれます。もうすぐ、校内に毒ガスが撒かれます』
『こ、こら! 何を言っているんだ!?』
『え? あっ、やばっ! まだ残ってるしっ。さ、さよなら〜〜』
「…………」

 顔を見合わせて呆れている4人。
 ある意味でこの学園の放送委員の活動は治外法権的な様相を呈している。そのため、日常茶飯事的にこういった放送が流れるとは言え、まさか行事放送でこんな事をするとは思ってもみなかったのだ。どうやら、2年生の放送委員は、なかなかに粒ぞろいらしい。

「……さて、それじゃ、行きますか」

 いくらか空白の時間が過ぎた後、和広が言葉を発して歩き出した。
 和広が歩き出すと、その横に燐が並ぶ。
 そして、美佳と薫がその後ろに続く。

 4人の物語は、まだ始まったばかり。それは桜が舞う、春風の気持ちいい始業式の出来事だった。

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